2010-01-01から1年間の記事一覧

聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その2)

聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その1)のつづき。 本題に入る。 物部守屋討滅の「物語」とはどんな「物語」か。 大雑把に書けば、 1.蘇我馬子は諸皇子と群臣に勧めて物部守屋を滅ぼそうと謀った。 2.守屋討滅軍は苦戦した。 3.厩戸皇子は四天王…

聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その1)

俺が厩戸皇子とキリストの関係を否定するのに、なぜキリストが馬小屋で生まれていないということを主張しないのかという素朴な疑問を持っていることは既に書いた。 それとは別に聖徳太子研究について大いに疑問に思っていることがある。もちろん俺はド素人だ…

大聖勝軍寺と四天王寺・法興寺の配置

『日本書紀』による四天王寺と法興寺が建立された経緯。 聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を…

推古天皇の年齢問題(その2)

推古天皇は敏達天皇の5年に18歳で皇后となった。敏達天皇は9年後の敏達14年に崩御した。そのとき推古は34歳であった。敏達5年に18歳であったのなら敏達14年には27歳のはずだ。ここに7年のズレがある。 ところで「7年」は用明天皇の在位2年と崇峻天皇の在位5…

推古天皇の年齢問題(その1)

欽明 (三十二年)夏四月十五日、天皇は病に臥せられた。 この月、天皇はついに大殿に崩御された。時に年若干。 敏達 四年一月九日、息長真手王の女広姫を立てて皇后とした。 冬十一月、皇后広姫が薨じられた。 五年春三月十日、役人が皇后を立てられるよう…

聖徳太子記事関連まとめ (その2)

⇒聖徳太子記事関連まとめ - 国家鮟鱇 ここに書いた俺の推理を、日本書紀の編纂者視点で再構成すると以下のようになる。 ・日本書紀の原史料には、「推古天皇の伝記」と「聖徳太子の伝記」があった。 ・「推古天皇の伝記」には「先帝」が任那復興・新羅出兵計…

聖徳太子記事関連まとめ

聖徳太子非実在説 推古天皇は実在するのか? 崇峻天応は実在するのか? 用明天皇は実在するのか? 敏達天皇は実在するのか? 敏達天皇は実在するのか?(その2) 斉明天皇と神功皇后 ・仲哀天皇(遠征途上の突然死)→神宮皇后・応神天皇の事業継承 ・斉明天…

イエズス会の野望

ウィキペディアの「中国のキリスト教」の項目を見てたら、 フランシスコ・ザビエルは二年半の滞日で「日本人をキリスト教徒にするには中国人をキリスト教徒にするほかない」と考え、自ら中国宣教を試みたが、果たせず上川島で病没した。東インド管区巡察師ア…

馬小屋と家畜小屋では大違い(その2)

厩戸皇子の出生伝説がキリスト教の影響で成立したという説は、隋唐の時代に中国にキリスト教が伝播し、それが日本の留学僧によって聖徳太子伝説に取り入れられたという説だ。 しかし、日本にキリスト教が渡来したという説は現在認められていない。日本に入っ…

馬小屋と家畜小屋では大違い(その1)

キリストが馬小屋で生まれたのではないという話の補足。 『聖書』にはキリストが馬小屋で生まれたとは書いてない、ただ「ルカ伝」に「飼い葉桶に寝かせた」とあるのみだ。「飼い葉桶」から家畜小屋で生まれたと連想することは可能だ。ただし、当時は家畜を洞…

封建制とは何か

「封建制」という言葉は一般的にあまり良い意味では使われていないと思う。類語として「封建的」という言葉もあり、こちらも良い意味では使われていない。 しかし、封建制というのは、そんなに悪い制度なんだろうかという疑問が俺にはある。 というか「封建…

夫婦別姓論議と自由

最近また夫婦別姓に関する議論が盛んだ。 今回は「自由」と絡めて議論されているようだ。こことか。 ⇒エヴァ最終話に学ぶ夫婦別姓反対の心理 - ビジネスから歩み去る有村 ところで、今議論されている夫婦別姓問題とは、民法を改正すべきか否かという問題であ…

馬に宿りし皇子

調子に乗っていつものようにトンデモ説を書いてみる。 久米邦武博士の『上宮太子実録』を流し読みしてたら興味深い考察が載っていた。聖徳太子の母は「間人皇后」で「はしひと」と読むが「まひと」とも読め、訓はまちまちである。元々「間人皇子」であったの…

久米邦武説を検証する

実のところ久米邦武博士の『上宮太子実録』を見るのは今日が初めて。やはり原典はちゃんと当たってみるべきものだと、当然のことを思う次第。 『上宮太子実録』には、 是も彼猶太の王族約瑟(ヨセフ)、馬利の夫妻、戸籍の検査にベトレムに赴き、村の入口な…

久米邦武『上宮太子実録』より

聖徳太子とキリストの関係を述べた箇所 「近代デジタルライブラリー」から(俺には読めとれない漢字は●で示す、また誤字・脱字があるかもしれないけれどご容赦願います) 但し爰に怪訝すべきは、厩戸の産に金人の夢を輳合して、救世菩薩の化身となしたるは、…

千葉県の織田氏

千葉で思い出したけれど、戦国時代末期の成田に織田左京大夫政治という武将がいたそうだ。 ⇒菊水山城(滑川城・成田市滑川字城台) ⇒小菅城(成田市小菅字根古屋) ⇒東和泉城(成田市東和泉字城山) ⇒龍台城・小倉屋敷(成田市龍台) (以上全て「余湖くんの…

豊臣武将の落人伝説

⇒八幡から豊臣へ - Living, Loving, Thinking この手の話は大好物だ。 てなわけで少し調べてみた。マイナーな話かと思ったら結構ヒットした。八幡神社はウィキペディアにも項目がある。某氏の素性についてはネットを検索した限りでは全くわからない。ただし…

奨学金問題続報

⇒asahi.com(朝日新聞社):「マニフェスト達成に必要」予算特別枠の評価に異議続々 - 政治 文部科学省は、高校生や大学生に奨学金を配る「『新しい公共』の担い手育成プログラム」(1331億円)へのC判定に、「パブリックコメントで5万5千人を超える…

イエス・キリストは馬小屋で生まれたのではない

『聖徳太子研究の最前線』というブログがある。著者は駒澤大学仏教学部教員の石井公成氏。今年、天漢日乗さんのブログ記事で存在を知った。今読んでいる日本史関連のブログでは、もっとも専門的で中身が濃くて参考になり読み応えのあるものだと思う。 このブ…

「さかなクンさん」と「後西天皇」

⇒Twitter / NHK広報局: 先ほどのツイートで、さかなクンさんを、さかなクンとお ... これ見て後西天皇が思い浮かんだ。 後西天皇は兄と(義理ではあるが)甥の間にあって在位し、その子孫を皇統に残すことができなかった。そのため、同じような道をたどった…

平安楽土(その9)

平城京廃都について調べていたらものすごい記事を見つけた。 ⇒〝長岡京遷都論に影響〟 藤原仲麻呂邸宅「田村第」(平城宮跡の散歩道) 2007年10月8日の毎日新聞の記事で、平城京にある藤原仲麻呂の邸宅「田村第」が長岡京時代に宅地割りされていたというのだ…

平安楽土(その8)

桓武天皇が長岡京に遷都して平城京が廃都になったという根拠が未だにわからない。 今までにわかったこと。 ※延暦10(791)年9月に平城宮の諸門を壊して長岡宮に移転させた。 長岡京遷都は延暦3(784)年であるから実に7年後のこと。これについては長岡京の建…

平安楽土(その7)

平安遷都というと一般的には「平城京→長岡京→平安京」という流れとして認識されていると思う。 だがここで見落としてはならないのは「難波京」だ。 当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するので…

平安楽土(その6)

嵯峨天皇は平安京を右京(長安)・左京(洛陽)という二つの都市の集合と見做したのは複都制の伝統を受け継いだのではないかというのが前回の要約。誰かが唱えているんじゃなかろうかと思ったけれど今のところ見つからないのでトンデモかもしれないが続ける…

ステレオタイプな説明

人には個性があり、同じものを説明するにしても、説明する人によって違いがでてくる。百科事典の同じ項目でも、出版社によって記述している人は異なるので一つの事典だけで満足するのではなく、複数の事典を参照するのが好ましいし、ネットで調べる場合も同…

平安楽土(その5)

あらかじめ断っておくけれど、俺は平安京に関する知識に乏しい。だが、素朴な疑問ならいくつもある。 その一つが、平安京の西側を「長安」、東側を「洛陽」と呼んだということだ。 素人の俺の素朴な疑問は、これはつまり「平安京」というのは一つの「京」で…

平安楽土(その4)

平安京の西側を「長安」、東側を「洛陽」と呼んだというのは有名。 古く京都は、しばしば中国王朝の都となった洛陽に因み、京洛、洛中、洛陽などといわれた。元々は平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んでいた。とこ…

金閣-相国寺-金閣

⇒asahi.com(朝日新聞社):足利義満創建の「鹿苑院」跡か 京都で遺構発見 - 文化 ところで、金閣と相国寺と銀閣はぴったり直線で結ぶことができるって知ってました?しかも相国寺がほぼ中間にある。より大きな地図で 金閣-銀閣 を表示 これは誰が見つけたの…

暴力装置とシビリアンコントロール

『職業としての政治』(脇圭平訳 岩波文庫)をざっと見てみた(最後の方は飛ばし読みだけど)。 さて、俺が知りたかったのは、「暴力装置」とは「国家」のことか、「軍隊や警察」のことかということもあるけれど、それよりも、「軍隊や警察」あるいはその他…

国定忠治が地元のヒーローになった理由は?

⇒国定忠治 - Living, Loving, Thinking 経由。 後にも博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として脚色された。講談や映画、新国劇などの演劇の題材となる。 ⇒国定忠治 - Wikipedia 俺…