平安遷都というと一般的には「平城京→長岡京→平安京」という流れとして認識されていると思う。
だがここで見落としてはならないのは「難波京」だ。
当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮と長岡京は淀川で通じていることから、難波宮の宮殿を移築した。
延暦3年5.16、遷都のため山背国乙訓郡長岡の地を視察させる。11.11、長岡宮に遷幸。遷都反対の声が強かったため、副都を難波から長岡に移すと称して新都を建設し、この行幸により実質的に遷都が実現された。
⇒桓武天皇(大伴家持の世界)
とあるので、これは史料的にも裏づけのあることなのだろう(追記:と思ったけれど、そうでないかもしれない)。
問題はその意味だ。
『大系 日本の歴史 3 古代国家の歩み』(吉田孝 小学館)では、
長岡遷都は、平城京からの遷都であるとともに、難波京の廃止・吸収という意義をもっていた。難波の津(港)は浅瀬が多くなり、機能が低下していたので、財政緊縮をもかねて、平城京・難波京の複都の制を止め、長岡京一つにまとめたのである。
と解説している。
つまり、長岡遷都によって複都制は終ったという見解だ。
そうなのだろうか?長岡遷都によって難波京は消滅した。しかし平城京はどうなのだろうか?やはり、この時点で廃都になってしまったのだろうか?
そこのところが俺にはよくわからない。
(つづく)