平安楽土(その8)

桓武天皇長岡京に遷都して平城京が廃都になったという根拠が未だにわからない。


今までにわかったこと。


延暦10(791)年9月に平城宮の諸門を壊して長岡宮に移転させた。
長岡京遷都は延暦3(784)年であるから実に7年後のこと。これについては長岡京の建都が財政上の理由などで思うように進まなかったからだという説がある。この説が正しいとすれば、これは当初からの計画ではなかったことになる。また平城宮の諸門がなくなったからといって平城京が廃都になったということはできないだろう(と思う)。


貞観6(864)年に平城京の跡地は田圃になっているという記事がある。
平城京が廃都になってすぐに田園になったとする言説を何件か見たけれども、おそらくこれが元になっているのだろう。しかし、すぐにと言っても80年後のことだ。これだけで長岡遷都後すぐに廃都になったとはいえないのではないか。


※平安遷都に関しては延暦12(793)年に早くも長岡宮を壊すために東院を遷御したという記事がある。長岡遷都の時にはそのような記事はない(と思う)。


長岡京の跡地を延暦16(797)年正月に菅野眞道に賜った等の記事があるが、平城京にそのような記事はない(と思う)。


平城天皇の歌に「ふるさととなりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり」というのがある。「故里」とはあるけれども、一方で「都」ともある。


いや、ちゃんとした根拠があるのかもしれないけれど、それが俺にはわからない。