四天王寺と崇福寺

四天王寺に関して俺は他にも注目しているものがある。


それは四天王寺と近江の崇福寺の関係だ。


四天王寺崇福寺跡を直線で結ぶと、その線上に天智天皇がある。
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崇福寺天智天皇ゆかりの寺院だ。
崇福寺跡 - Wikipedia

崇福寺跡(すうふくじあと)は、滋賀県大津市にある白鳳時代から室町時代にかけて存在した寺院の遺跡。崇福寺は、668年に天智天皇の命により近江大津宮の北西の山中に建立され(『扶桑略記』ほか)延暦年間に十大寺に選ばれるなど栄えたが、たびたび火災にみまわれるなど衰退し、一時園城寺に付嘱したものの山門寺門の抗争に巻き込まれるなどし、室町時代には廃寺となった。寺跡は1928年(昭和3年)からの発掘によって確認。現在の跡は梵釈寺(桓武天皇天智天皇追慕のために建立)との複合遺跡と考えられている。国の史跡に指定されている。


四天王寺の創建は「日本書紀」によれば西暦593年であり、崇福寺は668年。天智天皇崩御が672年で陵墓が造営されたのはその後のことになるから、四天王寺崇福寺天智天皇陵の位置を意識して作られたということは無いだろうが、その逆の可能性ならありえるだろう。また「日本書紀」の成立は720年だから、このことが書紀に記事に反映している可能性もゼロではないように思われなくもない。


なお、ウィキペディアの説明に

現在の跡は梵釈寺(桓武天皇天智天皇追慕のために建立)との複合遺跡と考えられている。

とあるが、「梵釈寺」の説明に、、

延暦5年(786年)に桓武天皇長岡京の無事完成と曽祖父天智天皇の冥福を祈るために創建したとされる。当初は四天王を祀ったことから四天王寺とも称されたが、延暦14年(795年)に梵釈寺と改名されて本格的な寺院建設が始まった。

梵釈寺 - Wikipedia
とある。


すなわち長岡京時代において、難波の四天王寺と近江の「四天王寺」を結んだ直線上に天智天皇陵があった可能性があるということだ(当時の梵釈寺の位置が現在の崇福寺跡と重なるか不明だからあくまで可能性だけれど)。


※さらにいえば近江になぜ聖徳太子が寺を創建したという伝説があるのかという問題のヒントになる可能性もあるかもしれないとも思う。


※なお天智天皇陵を造ったのは天武天皇大友皇子が場所を選定したという説もあるけれど)だということも意味を持ってくるかもしれない。なぜなら、四天王寺法興寺を結んだ直線上に神武天皇陵があるからだ(天武朝で神武陵とされたのは現在の神武陵ではないとする説があるけれど、近年は現在の比定地で合っているという説が盛り返している模様)。