聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その2)

聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その1)のつづき。


本題に入る。


物部守屋討滅の「物語」とはどんな「物語」か。


大雑把に書けば、
1.蘇我馬子は諸皇子と群臣に勧めて物部守屋を滅ぼそうと謀った。
2.守屋討滅軍は苦戦した。
3.厩戸皇子は四天王の像を作って戦勝祈願し、勝利すれば護世四王のために寺塔を建てることを誓った。
4.馬子大臣も諸天王・大神王に誓った。
5.誓いの後に進軍した。迹見首赤檮が守屋を射殺した。守屋軍は崩壊した。
6、乱の平定後、摂津国四天王寺を造った。蘇我大臣は飛鳥に法興寺を建てた。
という話。


「物語」の結は四天王寺法興寺の建立であり、建てたのは厩戸皇子蘇我馬子であり、そのきっかけは、厩戸皇子蘇我馬子の戦勝祈願である。この「物語」の主役は最初に戦勝祈願をした厩戸皇子であり、準主役は次に戦勝祈願した蘇我馬子である。


その主役たる厩戸皇子が諸皇子の三番目に過ぎないというのは不自然であるというのが、まず素人目から見た素朴な疑問である。もちろんこれが「史実」であるなら仕方がないが、「物語」として見た場合の感想としてはこうなる。


そんなことを言ったって、『日本書紀』の記述では、厩戸皇子は諸皇子の三番目に記されているという厳然たる事実があるではないかという批判は当然予想できる。


それに対して、俺は、この「物語」の中における厩戸皇子の序列は諸皇子中の最高位であるということを主張したいのである。


日本書紀』の記述は、

崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(五八七)七月》秋七月。蘇我馬子宿禰大臣勧諸皇子与群臣。謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子。竹田皇子。廐戸皇子。難波皇子春日皇子蘇我馬子宿禰大臣。紀男麻呂宿禰。巨勢臣比良夫。膳臣賀施夫。葛城臣烏那羅。倶率軍旅、進討大連。大伴連噛。阿倍臣人。平群臣神手。坂本臣糠手。春日臣。〈 闕名字。 〉

日本書紀(朝日新聞社本)J−TEXTS 日本文学電子図書館より
となっている。


これをグループ分けすると、
A「泊瀬部皇子。竹田皇子。廐戸皇子。難波皇子春日皇子。」
B「蘇我馬子宿禰大臣。紀男麻呂宿禰。巨勢臣比良夫。膳臣賀施夫。葛城臣烏那羅。」
C「大伴連噛。阿倍臣人。平群臣神手。坂本臣糠手。春日臣。」
という5人×3のグループができる。このうち厩戸皇子は皇子で構成されるAグループに属し、五人の中の三番目に位置する。従って「この時点での厩戸皇子は諸皇子の中の三番目に過ぎない」というような説が出てくる。


しかし、よく考えてほしいのだが、五人の中の前から三番目ということは後ろから三番目ということでもあるのだ。



ここまで書いて何を言いたいのか理解できないとすれば、それは諸皇子が一列に並んでいる姿を想像しているからである。発想を転換すれば別の姿が見えてくる。


それは、厩戸皇子の左前方と右前方に二人の皇子、左後方と右後方に二人の皇子が配置されている姿である(前方一人、左右二人、後方一人かもしれないけど)。


別の言い方をすれば厩戸皇子の四方に四人の皇子が配置されている姿である。


さて、この物部守屋討滅の「物語」とはどういう「物語」なのかといえば、それは四天王寺及び法興寺の縁起とでもいうべき「物語」である。


四天王寺はもちろん四天王を安置する寺ということだ。四天王は仏法を守護する四人の守護神のことである。
四天王 - Wikipedia


つまり俺が言いたいのは、「泊瀬部皇子。竹田皇子。廐戸皇子。難波皇子春日皇子。」という「日本書紀」の記述は、厩戸皇子とそれを守護する四人の皇子」を描写したものだということだ。これこそが「厩戸皇子を主人公とした四天王寺の縁起物語」の正しい見方ではないのだろうか。



…というのが、俺の聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」なのであります。もちろん、これはド素人の発想なわけだけれども。ただし、なぜ「最大の素朴な疑問」なのかといえば、こんな発想は割と簡単に出てきても良さそうなものなのに、今まで誰かが主張しているのを見たことがない。それはなぜかと思うわけで、それはあまりにも馬鹿馬鹿しい考えだから誰も言い出さないのだという可能性もあるけれども、しかし、世の中には結構そういう馬鹿馬鹿しい考えが流通しているのに、これを言い出す人がいないのはどうしたわけだとも思うわけで、もしかしたら誰も気付いていないんじゃないかとも思うわけなのだ。