迹見首赤檮 (補足その1)

迹見首赤檮(まとめ)の続き。


実はまだ続くんだ。これまでは俺がまず間違いないと考えていることであって、ここからはそこまで自信はないけれど、そうなのではないかという俺の推理。


迹見首赤檮が物部守屋を射落としたという伝説は「太陽を射る話」であり、上宮王家と蘇我氏が没落することを暗示している。だから西暦645年以降に作られた話だ。というのがこれまでの結論。


これは、いわゆる「陰謀論」の一種だ。俺は常々陰謀論が大嫌いだということを主張しているけれど、守屋合戦の伝説的要素を分析すると、そう考えるより外はないのだから仕方がない。


ただし、伝説の改竄は小規模なものだったと考えている。


すなわち、この話はゼロから作られたわけではなくて、厩戸皇子蘇我馬子誓願によって迹見首赤檮が物部守屋を射落としたといエピソードが新たに追加されたものであって、それ以前の伝説においても「太陽を射る話」であったのではないかと思っているということだ。


より具体的に書けば、当初の伝説において太陽(守屋)を射落とすことによって悲惨な最期を迎えたのは、上宮王家と蘇我氏ではなくて、別の人物であったであろうと考えているということだ。


その人物が誰であったかというと、ずばり泊瀬部皇子(崇峻天皇
崇峻天皇 - Wikipedia

というか、守屋合戦は崇峻天皇の記事に書かれているのだから、そうなるのが本来自然というものだ。


ただし、既に書いたことだけれど俺は泊瀬部皇子は「天皇(大王)」になっていないのではないかと疑っている。
聖徳太子記事関連まとめ (その2)


要点を書けば、推古天皇の先帝が朝鮮出兵を計画した途端に急死したという伝説が存在した。それは本来は敏達天皇である。ところが聖徳太子の父を天皇とする必要から用明天皇が挿入された。そのため新たに出兵計画後に急死する天皇が必要になった。よって蘇我馬子に殺害された泊瀬部皇子を天皇として挿入したということ。


泊瀬部皇子の死を招いたのは現実的な解釈では馬子との仲違い。だが、神話的な解釈では朝鮮出兵を計画したことだと俺は考える。


ところが、これは推古天皇の前にそれを挿入する必要から作られた神話であり、本来の泊瀬部皇子の死の神話的な意味は、まさにこの「太陽を射落とした結果としての死」だったのではなかろうか。


その役が聖徳太子蘇我馬子に移動してしまったために宙に浮いてしまった泊瀬部皇子の死を、皇子を天皇にすることによって再利用したということなのかもしれない。


(つづく)