推古天皇の年齢問題(その2)

推古天皇敏達天皇の5年に18歳で皇后となった。敏達天皇は9年後の敏達14年に崩御した。そのとき推古は34歳であった。敏達5年に18歳であったのなら敏達14年には27歳のはずだ。ここに7年のズレがある。


ところで「7年」は用明天皇の在位2年と崇峻天皇の在位5年を足した数と合致する。そこから用明と崇峻が実は即位しておらず、敏達天皇の即位期間を7年延長して21年とすれば、そのときの推古の年齢は34歳になり辻褄が合うことになる。


これがこの矛盾を解く一番簡単な答であるが、「思うは易し」で証明するのが困難であるのは、世界地図を見て大陸が元は一つでだったのではないかという発想が湧いても、それを科学的に立証するのが困難であったのと同じである。


(なお、敏達崩御時34歳であったのなら、7年後の崇峻崩御時の年齢は41歳でなければならない。ところが書紀は39歳と記し2年のズレがある。2年は用明の即位期間と同じであるから、この場合は用明だけが即位しなかったと考えることもできる)


また、「推古紀」には39歳のときに崇峻が殺されたとあり、34歳から39歳までの5年間に、崇峻が即位していないとすると空白ができてしまうのが難点である。



ただ、この説を棄てきれないのは、「敏達(とされた大王)の伝説」は敏達天皇のみならず、欽明天皇用明天皇崇峻天皇の伝説にも採用されたのではないかという疑念が俺にはあるからだ。気になるのは先にも触れた崩御の描写だ。敏達天皇任那再興を考えた途端に疱瘡に病み崩御した。欽明天皇新羅に使者を派遣して程なく病で崩御した。用明天皇は病になった日に仏教への帰依を表明したが程なく崩御した。崇峻天皇は4年11月4日に任那復興のために筑紫まで出兵させたが、5年11月3日に崩御した。丁度1年後のこととしているが日付の類似に疑念を持つ。


つまり、「欽明」=「敏達」=「用明」=「崇峻」と、これらの大王には「同一の大王の伝説の要素」が含まれているように俺には思えるのだ。また、これらの天皇崩御した日を見ると、欽明が4月15日に病んでこの月に崩御。敏達は8月15日とあるが「古事記」の分注には4月6日とある。用明が4月9日(「古事記」では4月15日)であり、この三帝に4月に崩御したという共通した伝説があるのも注目すべきであろう。


また用明の崩御は2年4月9日であるが、推古元年4月10日に聖徳太子が皇太子になっている点も重要だ。その間に崇峻の5年があるのだが、この日付の連続は見過ごすことができない。まるで崇峻の5年が存在せず、用明崩御聖徳太子の皇太子就任が繋がっているかのように見えるのだ。


俺には、この期間の『日本書紀』の記述の背景となるものに、
・敏達→推古
・敏達→用明→推古
・敏達→崇峻→推古
という3つのパターンが存在するように思える。


※ところで「崇峻紀」には2年6月、蘇我馬子によって穴穂部皇子と宅部皇子が殺された記事が載っている。崇峻天皇(泊瀬部皇子)も実はこれに関連して殺された皇子の一人ではなかったかとも思う。


聖徳太子は『書紀』によると推古29年薨去推古天皇は36年で崩御だからその7年前となる。すなわち用明元年から数えれば36年目となる。これにも意味があるのかもしれない(太子の死後皇太子を立てていないことも含めて)。