聖徳太子記事関連まとめ


仲哀天皇(遠征途上の突然死)→神宮皇后・応神天皇の事業継承
斉明天皇(遠征途上の突然死)→天智天皇の事業継承
という話はよく似ているが、それだけではなく
崇峻天皇朝鮮出兵命令後の突然死)→推古天皇聖徳太子の事業継承
も極めて類似している。


しかし、よく見ると欽明天皇も死(32年4月)の直前に新羅に使者を派遣している(32年3月5日)。そして「皇太子」に新羅を討てと遺言している。


さらに、次の敏達天皇任那復興を計画した途端に疱瘡で病み崩御した


欽明天皇敏達天皇の事跡は同じ13年に仏像が渡来するという点でも類似している(類話を二人の天皇の事跡に分割配置した可能性がある)。


朝鮮半島進出計画と突然の死、そして後継者の実施」という神話のパターンがあるとすれば、次の用明天皇が出兵しなければならない。しかし、天皇は出兵しなかった。だが、用明天皇もまた仏教の帰依と突然の死がセットになっている。そして、それを継承したのが聖徳太子である。すなわちこれもまた「突然の死と後継者の実施」という神話のパターンにあてはまる。


そして次の崇峻天皇の死と推古天皇聖徳太子の事業継承へと続くのだが、欽明・敏達天皇の事業継承が宙に浮いてしまう。


考えるに、欽明天皇敏達天皇の伝説は元は同一の大王の伝説であったものが、二つに分かれたものであり、かつその継承者は推古天皇である


しかし、聖徳太子が父帝の遺業を継承したという話を挿入する必要から、敏達と推古の間の継承は途絶してしまった


推古天皇の前の天皇が突然死して推古天皇朝鮮出兵の事業を継承する必要から崇峻天皇が挿入された


これらは、あるいは「作為」と呼べるかもしれないが、何らかの利益を狙ったものではなく、過去の歴史の真実が既にわからなくなっていた書紀の編纂者が、諸史料を比較検討して歴史の再現を図った結果によるものであり、現代の歴史学者の行いと変らない。


ということ。俺はいい線いっていると自負しているのだが、もちろんこれが真相だと言い切るつもりはない。