2010-01-01から1ヶ月間の記事一覧

秀吉「中国大返し」の謎(その7)

次に『川角太閤記』について。 ⇒川角太閤記 - Wikipedia この史料では、本能寺の変報が最初に届いたのが三日亥の刻(午後十時)。和談成立が四日、秀吉は五日の午前二時頃に退陣出発したようになっているが、これは前にも書いたように事実は六日の午後三時頃…

秀吉「中国大返し」の謎(その8)

以上見てきたように、5日に秀吉と毛利側との間に交渉があったことを窺わせる史料は意外に多い。一級史料による裏付けはないけれど、歴史上の出来事がすべて載っているとは限らない。一級史料に書かれていることと矛盾しているというのであれば、優先すべきは…

秀吉「中国大返し」の謎(その6)

『甫庵太閤記』6月5日の記事に書かれている秀吉と毛利側との交渉は実際にあったのか? 毛利側の史料である『江系譜』に、 和睦相済み、同日(四日)秀吉より蜂須賀家政を以て、信長父子、明智光秀がために切腹を告ぐる事、毛利家より又悔やみの使者として、…

秀吉「中国大返し」の謎(その5)

『甫庵太閤記』の記事をどう評価すべきか? 史実では和睦は4日であるのに、甫庵は5日のこととしている。しかも、内容が史実と大きく異なっており、秀吉は信長の死を毛利方に伝えていないし、援軍を依頼してもいないのだから、出鱈目もいいところで、全く信用…

秀吉「中国大返し」の謎(その4)

小瀬甫庵が書いた『太閤記』(『甫庵太閤記』)はどういう評価をされているのか? ウィキペディアにの「太閤記」の項には、 寛永3年(1626年)、儒学者の小瀬甫庵が著す。全20巻。秀吉伝記の定本とされているが著者独自の史観やそれに基づく史料の解釈、改変…

秀吉「中国大返し」の謎(その3)

豊臣秀吉の伝記として最も有名な小瀬甫庵の『太閤記』は中国大返しについて、「史実」とは大きく異なることが書いてある。 それによると、 6月3日 京都の商人、長谷川宗仁の飛脚によって本能寺の変報がもたらされる。 6月4日 秀吉は何事もなかったように陣廻…

加藤清正が捕まえた虎の餌にされた犬の話

安土桃山時代、加藤清正が文禄・慶長の役で朝鮮から持ち帰った虎を境内で飼育したと伝えられる という伝説が宝塚市の伊和志津神社にあるそうだ。 ⇒伊和志津神社 - Wikipedia リンクが貼ってあるので見てみると、 ところが、虎はけものの肉は食べますが、その…

秀吉「中国大返し」の謎(その2)

高松城の清水宗治が切腹したのが6月4日の午前。毛利側との和睦が成立したのは、高柳光壽説によればそれ以前のこと、谷口克広説によればそれ以降。 俺は谷口説を支持するが、いずれにせよ、和睦の時点で毛利側が本能寺の変報を知らなかったという点では一致し…

科学を装っていなければ科学者は批判するべきでないなんてことはない

⇒そんなツモリはないのにニセ科学扱いされちゃう理由: あぶすとらくつ 人気エントリーになってるので読んでみて思ったこと。 「ニセ科学」という言葉は汎用性が高く、ニセ科学批判者が定義する意味以外で使用されることもしばしばあるし、批判される側も「ニ…

「陰謀論」と歴史学

⇒「陰謀」って何だらう: 黒猫亭日乗 「陰謀論」について考察した力作。長文なので、今のところざっと読んだだけだけれど、良記事の予感。是非読んでほしい。 ところで、俺は前にこんな記事を書いた。 ⇒陰謀論的史料批判 - 国家鮟鱇 世界史については詳しくな…

秀吉「中国大返し」の謎

「中国大返し」とは、 Wikipediaの説明によれば、 秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進ん…

秀吉毒殺説(資料編)

近代デジタルライブラリー より。 ⇒燃藜室記述 - Wikipedia 敷河聞我使華使至。請於秀吉。幸得見焉。華使沈惟敬也。倭囚使客舘。兵守甚厳。敷河聞華人之哭声。帰報秀吉。秀吉即為蔭室。自舘至宮。延見惟敬。惟敬在坐啖一丸薬。再見亦如之。秀吉恠問之。惟敬…

秀吉毒殺説は荒唐無稽か?

近頃ちらほらテレビで豊臣秀吉毒殺説を見かける。たとえばテレビ東京の「決着!歴史ミステリ」とか。 しかし、一般的には、信じる信じない以前に、秀吉毒殺説というものが存在することすら知られていないだろう。「秀吉 毒殺」で検察しても有益な情報はなか…

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