秀吉「中国大返し」の謎(その3)

豊臣秀吉の伝記として最も有名な小瀬甫庵の『太閤記』は中国大返しについて、「史実」とは大きく異なることが書いてある。


それによると、
6月3日 京都の商人、長谷川宗仁の飛脚によって本能寺の変報がもたらされる。
6月4日 秀吉は何事もなかったように陣廻りをしていたところ、「毛利側から」使者が訪れて降参を請うた(毛利は5月下旬より再三和睦を申し入れていた)。秀吉も変報を聞いていたので受け入れようとは思ったが、5日の朝に返事をすると、使者を帰らせた。


6月5日 毛利側の使者に、「信長が殺されたことを隠さずに告げて」、それでも和睦するのか相談せよと言って使者を帰らせた。毛利軍の評議で、「年が若く勇みがちな人」は天の与えるところだとして、(和睦を)破って帰陣して様子を見るべきだと主張する者も多かった。評議が決しなかったところで、小早川隆景が発言した。
「信長が死んだことは秀吉にとって一応不吉なことだけれど、光秀を討って、さらに威勢が加わることがあれば、(和睦を破ったことで)毛利家を恨んで根絶やしにしようとするだろう」
「信長父子が殺された報が入ったのに秀吉は(動揺を)取り静めた。その上、黙っていればいいのに、それを良しとせずに毛利の使者を帰したことは至って剛である」
「秀吉は文武に秀で天下の大器である。天下の大器は天がなせる所である」
この三つの理由により、毛利側としては「昨日の筋目(和睦の内容)」に相違ないと返答するのが良いだろう。そして、まずは年寄の一人を信長の弔いとして遣わし、秀吉の上洛に「加勢」すべきであると隆景は主張し、輝元も尤もだと考え、内藤越前守広俊を弔使として使者に同伴させた。使者が「最前約諾之筋目相違有」と秀吉側の蜂須賀彦右衛門尉に誓紙をもって伝えると、秀吉は喜んだ。そして、明日出発するので鉄炮500挺、弓100張、旗30本の加勢を頼んだ。


と、書いてある。


誓紙を交わしたのが3日もしくは4日のことであるのに、「太閤記」では5日になっていること。秀吉が信長の死を毛利に知らせたこと。毛利が秀吉に加勢したこと等の点で、歴史家の認める「史実」と大きく異なっている。


これについて歴史家はどう考えているのかというと、高柳光壽氏の『本能寺の変』も谷口克広氏の『秀吉戦記』も、この甫庵『太閤記』の記述に一切触れていないのである。触れていないので、こっちで推測するしかないが、たとえそれが史実でないとみなされるものであっても、それを否定的に言及しているものはあるわけで、それさえ無いというのは、つまり「言及する価値すらない」と考えているということだろう。


もちろん、歴史家の書物を漁れば、それについて言及されたものもあるのだろうが、一般的には両氏と同様に「黙殺」しているのが大半であろう。従ってこれらのことは『太閤記』という有名な史料に書かれていることであるにもかかわらず、それを読んだことのない歴史ファンには、そういう話があることすら知らない人も多いのではないかと俺は思う。


しかし、この話は黙殺してしまってよいものなのだろうか?俺にはそう思えないのだが…


(つづく)


※ ちなみに高柳氏の『本能寺の変』は『太閤記』については触れていないが、秀吉が毛利の旗を借りたということについて、

 また『別本黒田家譜』には、秀吉と毛利氏との間に和議が成立すると、黒田孝高は、毛利氏の旗を二十本借りたいと小早川隆景に申し入れた。すると隆景は輝元の兵はここにはいないから、隆景自身の兵を率いて、隆景も秀吉と一緒に上洛すると申し出た。しかし孝高はこれを断って旗だけを借りた。それからまた宇喜家からも旗を借りた。備前・播磨は味方の国だから旗をしぼらせたが、兵庫辺からこれを立てた。これは敵の気を奪い味方の士気を盛んにする手立で、秀吉も感心したと見えている。この本は貝原益軒が作ったものであるが、何とも人を小馬鹿にした話である。黒田孝高の伝記の中には、孝高を偉くするための作り話がずいぶんたくさんあるが、これなどもその一例である、小牧の対陣のときのことならいざ知らず、このとき毛利家の旗を借りたなどとは全くあり得べからざることといってよろしい。

と書いている。また、秀吉が信長の死を告げたということに関して、

 なお頼山陽の『日本外史』などの末書には、秀吉は毛利氏に対し堂々と信長の訃を報じて講和したとあるけれども、それは全く誤りであって、秀吉は信長の訃を秘して毛利氏と講和したのであった。

と書いている。谷口氏の『秀吉軍記』は一切言及していない。