中国大返し(その6)

中国大返し(その5)の続き。


桑田忠親豊臣秀吉』(角川書店)より

秀吉が、本能寺の変の実情を、吉川元春にうちあけて、同情をもとめた−などというのは、『太閤記』の著者小瀬甫庵のつくり話であり、また、岡田玉山がえがく『絵本太閤記』の絵そらごとにすぎない。また、元春が、−窮鼠をとらえるは、名将のわざにあらず−といっていましめた、などというのも、やはり、小瀬甫庵のつくり話である。乱世に浪花節調は通用しない。

ここに「乱世に浪花節調は通用しない」と書いてあることは重要だ。


桑田博士もまた、秀吉が毛利方に信長の死を知らせたということを「フェアプレイ」的なものとして捉えているのだ。


そして、乱世にそんなものは通用しないとして否定するのである。


だが、これがそもそもの誤りの元なのだ。



中国大返し」の研究史を逐一調べたわけではないけれど、俺の推測するところでは、


1、諸史料に「毛利方に信長の死を伝えた」と書いてあるのを見て、秀吉が最初から毛利方に伝えていたと理解する人がいた。
2、それに対して、秀吉は信長の死を秘して和議を結んだのだと学者が主張した(ただし最後まで秘したとは言っていない)
3、山路愛山が、和議の後になって秀吉が毛利方に伝えたということはありえると主張。

4、戦後、山路愛山の説はなぜか無視され、和議の際に秘しただけでなく、伝えたというのは誤りであると、まるで最後まで秘したかのように桑田忠親・高柳光壽氏などの大物が主張する。

5、桑田・高柳説が引き継がれ、「伝えた」説は否定、もしくは無視されて現在に至る。


というようなことになっているのではないかと思われ。


(つづく)