2011-02-18から1日間の記事一覧

中国大返し(その4)

中国大返し(その3)の続き。 なぜ、現代の歴史家は「豊臣秀吉が織田信長の死を毛利方に伝えた」ことを認めようとしないのか? その理由は、明記してない場合が多いので推測するしかない。 俺は、そこには現代の歴史研究を覆う「史観」が深く関係しているの…

中国大返し(その3)

中国大返し(その2)の続き。 山路愛山の『豊臣秀吉 』(岩波文庫) は数年前図書館で借りたことがあるのだが、その時は「淀殿」について調べていたときなので該当部分しか読まなかった。先日また借りてきたのだが、秀吉の出生について調べていたので、その部…

中国大返し(その2)

「中国大返し」の続き。 そもそも歴史家が勘違いしているのは「豊臣秀吉が織田信長の死を秘して毛利方と和議を結んだこと」と「秀吉が毛利方へ信長の死を知らせたこと」が矛盾していると考えている(らしい)ということだ。 なお頼山陽の『日本外史』などの…

中国大返し

⇒秀吉「中国大返し」の謎(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10) の続き。 本能寺の変の報を聞いた豊臣秀吉は毛利方と和睦した。 「その際に秀吉は毛利方に信長の死を伝え協力を要請した」 などというとトンデモ視されてしまう。 しかし、これ…

中国大返し(その5)

中国大返し(その4)の続き。 鈴木眞哉氏の『戦国時代の大誤解』(PHP新書)に、 この点については、秀吉は、毛利家に真実を告げて正々堂々と和議を結んだという説がある。その結果、毛利家の応援も取りつけて、旗印などを借り受けたので、それが山崎の戦いで…