中国大返し(その5)

中国大返し(その4)の続き。


鈴木眞哉氏の『戦国時代の大誤解』(PHP新書)に、

 この点については、秀吉は、毛利家に真実を告げて正々堂々と和議を結んだという説がある。その結果、毛利家の応援も取りつけて、旗印などを借り受けたので、それが山崎の戦い明智勢の戦意をくじく一因になったというオマケまでついている。いまだに、そんなことを取り次いでいる人もいるようだが、史料的に見れば真っ赤なウソである。
 秀吉はまんまと毛利家をだましたが、毛利家もまもなく気がついた。すぐに秀吉を追撃しろという声も強かったが、結局、実行されずに終わった。秀吉側からすれば、これもずいぶん運のよい話で、だまされた相手が追いかけてこないなどというのは、当時の常識では考えにくいことである。こういうことが秀吉の大成功に直結した。

とある。


ここでも、6月4日に豊臣秀吉が信長の死を秘して和議を結んだのであり、告げたなんてことはウソだとしている。


しかし、信長の死を告げた日が6月5日であれば、このことは全く矛盾していないのであり、そのことに気付かないで(少なくとも言及しないで)、告げたという説を批判しているのだ。


鈴木眞哉氏は学者ではなくて、在野の研究者だけれども、学者の認識もこんなところであろう。そもそも学者の場合、俺の見た限りでは、この件についての言及が無いか、あっても極めて短い文で切り捨てているのだ。


なお、鈴木氏の場合、「秀吉が信長の死を秘した」ということに固執しなければ、「定説」の問題点に気付けた可能性があるのではなかろうかとも思うが、その点についてはのちほど。


(ところで俺はかなり前(7〜8年前?)に鈴木氏にファンレターを送ったことがある。その時まさに俺は、秀吉は毛利方に信長の死を告げたのではないかというようなことを書いたのであった)