念のために追記。三浦按針を例に出してる人がいるが、ウィリアム・アダムスが、三浦按針の名乗りを許されたのはいったいいつでしょうか?徳川家康が引見した直後ではないはずです。彼も、忠功を認められて、名字(家名)を与えられたのですよ。いきなりではない。みなさん、よく調べましょうね。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年7月20日
三浦按針(ウィリアム。アダムス)は「青い目のサムライ」としばしば形容される。彼が侍だったことは疑いの無い事実だと多くの人が信じている(「武士」と「侍」の違いについてはややこしいのでここではとりあえず「武士=侍」としておく)。
だが、本当に彼は「侍」だったのだろうか?俺はある理由からそれに以前から疑問を抱いていた(後述)。
そこで弥助騒動が起きて少し調べていたところ、『三浦按針の謎に迫る -家康を支えたイギリス人臣下の実像』 (森良和 フレデリック・クレインス 小川秀樹 2022年)に『アダムスは「青い目のサムライ」か』という小見出しがあるのを見つけたのである。
読んでみたところ、これは「第11章 アダムスの出自の謎を読み解く -按針は「青い目のサムライか 小川秀樹」の中の小見出しであり、つまり按針の出自についての論考で、「青い目のサムライ」の「サムライ」ではなく「青い目」の方に重点が置かれていたのであった(ただし目の色が重要ということではなく、彼の文化的背景等について)。
だが、ほんの僅かではあるが「サムライ」の方にも触れている。
ところで表題の「青い目のサムライ」であるが、「青い」の印象論はさておき、「サムライ」についても、アダムスは、確かに帯刀を許されていたとはいえ、「サムライ」というより、むしろ実態は幕末や維新に来日した専門家の政府顧問である「お雇い外国人」に近いとの正鵠を得た指摘がある(smith 1980)。
たったこれだけしか書かれていないが、しかし、これは重要な指摘であろう。
幸いなことにHenry Smith氏の"Learning from Shǀgun Japanese History and Western Fantasy"はネットで読むことができた。今年エミー賞を受賞した『SHOGUN 将軍』の原作ジェームズ・クラヴェルの1975年の小説『将軍』(1980年一度目のドラマ化、同じ年に書かれているこの時点ではまだ未放映だったようだ)で日本の歴史に興味を持った人に対して、小説の世界と史実の世界の相関関係を詳しく説明した書ということらしい。
その中の「1 James Clavell and the Legend of the British Samurai Henry Smith」の「Some Questions About William Adams」中の4番目「4. Did he become a samurai? 」が該当部分。以下はグーグル翻訳したもの。
4. 彼は侍になったか?「侍」が武士、つまり戦士階級の一員を意味するのであれば、答えは間違いなくノーで、アダムズは決して侍にはならなかった。家康から領地を与えられ、家臣となったのは事実である。また、イギリス貿易局長の記録によると、彼は死去時に息子のジョセフに侍の身分の慣習的な印である二本の刀を残したとも言われている。しかし、現存する記録には、アダムズが軍事的関心や武勇を有していたことを示すものは一切ない。彼は商売に献身的な男であり続けた。商売は武士階級にとっては忌み嫌われる職業だった。アダムズの身分は、医師、学者、僧侶、芸術家、その他本質的に専門的または顧問的な役割を担う人々と同類であると説明すれば、より説得力がある。こうした男たちは、基本的に徳川の正式な四階級、すなわち侍、農民、職人、商人の中では異端者だった。彼らは一般的に「法外者」と呼ばれていた。この言葉は主に僧侶に当てはまり、僧侶はおそらく一般の世界を捨てたが、他の異端の階級にも適用された。彼らの特権も非標準的だった。たとえば、医者は二刀流を許されていたが、決して侍とはみなされていなかった。幕府に雇われたこうした男たちは、まさにその顧問的役割ゆえに、大名よりも将軍に近づくのがはるかに容易だった。したがって、アダムズは間違いなくこの異端の階級に当てはまっただろう。日本人が彼を侍とみなすなどほとんど考えられない。せいぜい「名誉ある侍」だった。旗本という身分は幕臣の中でも特別な階級だったが、アダムズに関する記録は残っていない。しかし、250石の領地は、彼が旗本という身分にかろうじて値していた可能性もある。また、彼はおそらく、明治日本の「やとい」(H. J. ジョーンズの最近の著書「Live Machines」で説明されている)に似た、高給取りの外国人専門家という、実際のところ異例の存在だっただけと考えられていたのだろう。
以上。グーグル翻訳で「法外者」になったしまったが、原文は「hogaimono」で「方外者」が正しい。
Henry Smith氏によれば三浦按針は「士農工商」の中に含まれず「方外者」の同類だったという。
とにかくこれは非常に重要な指摘だと思うのであります。このように今から約45年も前に海外で重要な指摘がされているのですが、日本ではどうかといえば、この問題に関して、ざっと探したところでは特にめぼしいものが見当たらないように思います。といっても上の小川秀樹氏の記事に見るように、否定しているのではなく「正鵠を得た指摘」と肯定的な評価がなされているのです。
現在の日本人の多くは三浦按針がサムライ(侍・あるいは武士)だったということに全く疑いを持っていないのではないかと思います。それは三浦按針研究者の一部を除いた歴史研究者においても同様なのではないかと思われます。
しかし、三浦按針が本当に「青い目のサムライ」だったかは考え直す必要があるのではないかと思うのであります。
(つづく)