三浦按針はサムライだったのか?(その1)(黒人弥助についてのあれこれ)

 

三浦按針(ウィリアム。アダムス)は「青い目のサムライ」としばしば形容される。彼が侍だったことは疑いの無い事実だと多くの人が信じている(「武士」と「侍」の違いについてはややこしいのでここではとりあえず「武士=侍」としておく)。

 

だが、本当に彼は「侍」だったのだろうか?俺はある理由からそれに以前から疑問を抱いていた(後述)。

 

そこで弥助騒動が起きて少し調べていたところ、『三浦按針の謎に迫る -家康を支えたイギリス人臣下の実像』 (森良和 フレデリック・クレインス 小川秀樹 2022年)に『アダムスは「青い目のサムライ」か』という小見出しがあるのを見つけたのである。

 

www.tamagawa-up.jp

読んでみたところ、これは「第11章 アダムスの出自の謎を読み解く -按針は「青い目のサムライか 小川秀樹」の中の小見出しであり、つまり按針の出自についての論考で、「青い目のサムライ」の「サムライ」ではなく「青い目」の方に重点が置かれていたのであった(ただし目の色が重要ということではなく、彼の文化的背景等について)。

 

だが、ほんの僅かではあるが「サムライ」の方にも触れている。

 ところで表題の「青い目のサムライ」であるが、「青い」の印象論はさておき、「サムライ」についても、アダムスは、確かに帯刀を許されていたとはいえ、「サムライ」というより、むしろ実態は幕末や維新に来日した専門家の政府顧問である「お雇い外国人」に近いとの正鵠を得た指摘がある(smith 1980)。

たったこれだけしか書かれていないが、しかし、これは重要な指摘であろう。

 

幸いなことにHenry Smith氏の"Learning from Shǀgun Japanese History and Western Fantasy"はネットで読むことができた。今年エミー賞を受賞した『SHOGUN 将軍』の原作ジェームズ・クラヴェルの1975年の小説『将軍』(1980年一度目のドラマ化、同じ年に書かれているこの時点ではまだ未放映だったようだ)で日本の歴史に興味を持った人に対して、小説の世界と史実の世界の相関関係を詳しく説明した書ということらしい。

 

その中の「1 James Clavell and the Legend of the British Samurai Henry Smith」の「Some Questions About William Adams」中の4番目「4. Did he become a samurai? 」が該当部分。以下はグーグル翻訳したもの。

4. 彼は侍になったか?「侍」が武士、つまり戦士階級の一員を意味するのであれば、答えは間違いなくノーで、アダムズは決して侍にはならなかった。家康から領地を与えられ、家臣となったのは事実である。また、イギリス貿易局長の記録によると、彼は死去時に息子のジョセフに侍の身分の慣習的な印である二本の刀を残したとも言われている。しかし、現存する記録には、アダムズが軍事的関心や武勇を有していたことを示すものは一切ない。彼は商売に献身的な男であり続けた。商売は武士階級にとっては忌み嫌われる職業だった。アダムズの身分は、医師、学者、僧侶、芸術家、その他本質的に専門的または顧問的な役割を担う人々と同類であると説明すれば、より説得力がある。こうした男たちは、基本的に徳川の正式な四階級、すなわち侍、農民、職人、商人の中では異端者だった。彼らは一般的に「法外者」と呼ばれていた。この言葉は主に僧侶に当てはまり、僧侶はおそらく一般の世界を捨てたが、他の異端の階級にも適用された。彼らの特権も非標準的だった。たとえば、医者は二刀流を許されていたが、決して侍とはみなされていなかった。幕府に雇われたこうした男たちは、まさにその顧問的役割ゆえに、大名よりも将軍に近づくのがはるかに容易だった。したがって、アダムズは間違いなくこの異端の階級に当てはまっただろう。日本人が彼を侍とみなすなどほとんど考えられない。せいぜい「名誉ある侍」だった。旗本という身分は幕臣の中でも特別な階級だったが、アダムズに関する記録は残っていない。しかし、250石の領地は、彼が旗本という身分にかろうじて値していた可能性もある。また、彼はおそらく、明治日本の「やとい」(H. J. ジョーンズの最近の著書「Live Machines」で説明されている)に似た、高給取りの外国人専門家という、実際のところ異例の存在だっただけと考えられていたのだろう。

以上。グーグル翻訳で「法外者」になったしまったが、原文は「hogaimono」「方外者」が正しい。

 

Henry Smith氏によれば三浦按針は「士農工商」の中に含まれず「方外者」の同類だったという。

kotobank.jp

 

とにかくこれは非常に重要な指摘だと思うのであります。このように今から約45年も前に海外で重要な指摘がされているのですが、日本ではどうかといえば、この問題に関して、ざっと探したところでは特にめぼしいものが見当たらないように思います。といっても上の小川秀樹氏の記事に見るように、否定しているのではなく「正鵠を得た指摘」と肯定的な評価がなされているのです。

 

現在の日本人の多くは三浦按針がサムライ(侍・あるいは武士)だったということに全く疑いを持っていないのではないかと思います。それは三浦按針研究者の一部を除いた歴史研究者においても同様なのではないかと思われます。

 

しかし、三浦按針が本当に「青い目のサムライ」だったかは考え直す必要があるのではないかと思うのであります。

 

(つづく)

「熨斗付」についての史料(その1)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その7)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇

 

弥助に関連して「熨斗付」について調べて見つけた興味深い史料をいくつか

 

(1)『妙法寺記』(天文21年)

此年霜月廿七日駿河義元御息女樣ヲ甲州晴信様御嫡武田大吉殿様ノ御前ニナホシ被食、去程ニ甲州一家國人ノキホヒ不及言說候武田殿ノ人數ニハ更ニ熨計付八百五十僕義元殿人數ハ五十僕御座、輿十二挺長持廿カラ女房衆ノ乘鞍馬百足御座ヽ兩國喜大慶ハ後代有間敷候其內ニモ小山田彌三郎殿一國ニ而御勝レ候

武田信玄嫡男「武田大吉(義信のことだとおもわれる)と今川義元娘(嶺松院)の結婚の記事。「武田殿ノ人數ニハ更ニ熨計付八百五十僕」の「熨計付」は「熨斗付」であろう。

 

「武田殿ノ人數ニハ更ニ熨計付八百五十僕義元殿人數ハ五十僕御座」の解釈だが、

そのお供は武田方八百五十、今川方五十、

(『妙法寺記の研究 : 富士山麓をめぐる戦国時代の古記録』萱沼英雄 1962)

僕というのはそれによって人数をあらわしたものであり、

(『甲州武田家臣団』土橋治重 1984

とあるが、何の人数をあらわしたのか明確ではない。総人数と解釈しているのではないかとも思われる。

 

だが、おそらく「熨計付八百五十僕」とは武家奉公人の数であろう。「武田殿ノ人数」が武士または侍のことであり、「更ニ」(それに加えて)、「熨計付八百五十僕」すなわち「熨斗付刀をさした中間・小者等が850人いた」ということで、「僕」=奉公人と考えられる。「義元殿人數ハ五十僕」も「義元殿人數」に加え50人の奉公人がいたということだと思う。

 

なぜなら既に繰り返し書いたように、熨斗付刀は武家奉公人がさすものだから。なお北条氏政武田信玄の娘(黄梅院)の結婚についても「熨斗付」が記事中にあるが、こちらは単に記事を見ただけでは読み取るのは難しいが、やはりこれも奉公人がさす熨斗付刀のことだと考えるのが妥当だと思う。

 

(2)『武備軍要』(小幡勘兵衛景憲)

 右羽柴秀吉と御一戦の儀に付、猶以様子委細被仰出正義の事、井伊兵部少輔に被仰下十一ヶ条の事

(中略)

第六、熨斗付の刀脇指、大小共に三百十腰支度仕る。此内二百十腰請取て、小身の者共或は歩の忰者、中間小者に至(る)まで手柄、走廻る者甲州信州に多き家風、信玄の仕入らる。縦へば小身者には金子十枚くれ候へ。諸人雑兵迄に不見渡、依(て)其者脇指一つ刀一つ、扨は刀脇指共に為取有之。如斯見ては下々勇顧忠節、此故に信玄は千腰に及て拵へ、御褒美の長持と号して、着物袷羽織迄長持に入如斯。我は二千腰支度可仕申付候へども、未出来是信玄の謀〇心の奇兵と作法被立、必(ず)是を不可忘。

(後略)

(『甲州流兵法 : 信玄流兵法』 石岡久夫編 1969)(レ点等略)

小牧・長久手の戦いの時に徳川家康井伊直政に語ったとされるもの。難解な部分もあるが、家康は熨斗付の刀脇指を大小310腰用意した、その内210腰を「小身の者共」「歩の忰者」「中間・小者」に手柄(褒美)として与えたという意味だと思われる。「歩の忰者」の「忰者」は「悴者(かせもの)」で若党・殿原のことだと思われる。これを見ると家康は「中間・小者」だけではなく、「小身の者共」にも熨斗付刀を与えたと思われ、また若党・殿原にも与えている(もちろん小牧・長久手の戦いだから本能寺の変より後)。ただし、次に武田信玄の話があり、「小身者には金子十枚」を与えたのに対し、「諸人雑兵には(熨斗付の)刀脇指を与えた」という意味だと思われる。

 

この違い(小身者に与えるか否か)が人や地域による違いなのか、時代による違いなのかはわからない。ただ少なくとも「熨斗付」は武家奉公人の中間・小者にも与えられることは間違いなく、それが与えられたから「侍」だとは決してならないことはこれでもわかる。しかも「刀脇指」「大小」とあるので、短刀だとか、短刀ではないとかは「侍」身分か否かの判断材料にはならないとも言えよう。

 

(3)『信玄全集末書』

九 武者奉行貳人は、御馬の少先、左右を乘、當番は右にのりて備の跡先をしきれさる樣に、專下知をなす、非番は左を乘て、敵ちか付は、物見に出てはたらくへき樣子を見計、專下知肝要なり、其次に歩の廿人衆、百貳拾人、御馬の前に、此頭二騎、是は御橫目也、旗奉行鑓奉行、武者奉行と交り、御中間頭貳騎、是は目付也、御中間頭八騎、二十人衆頭八騎は、御褒美の長持新衆に持せ、押なり、此御長持には、熨斗付の刀、脇指、大小共に、千余腰、小袖羽織、何角色々入なり、是も二人つゝ番に替り、廿人衆も一日一夜つゝ、番替也

上の『武備軍要』にも書いてあるが武田信玄「御褒美の長持」というものを用意しており、この長持には「熨斗付の刀、脇指、大小共に、千余腰」が入っていたという。

 

(4)『甲陽軍鑑

一、 信玄公於テ御陣ニ、手柄をなす者に褒美なさるゝその色々は

 一、御証文(文章に)上中下有。一、のし付の刀脇指。一、鑓長刀。一、のどわ。一、小袖。一、羽織。一、碁石金。一、づきんまで、

長持に一ツもたせ給ふなり。功により、又は時のしほにより、是を下さるゝ事、御使いにて給り、又は家老衆をもつて給り、或は二十人衆之頭、御中問頭衆をもつても給る。さて又御前へ召寄られ給るもあり。其様子(口伝)あり。

(『戦国史料叢書 第5』人物往来社 1966)(レ点等略)

「のし付の刀脇指」を誰に与えるのか、これだけでは不明。ただ「御中問頭衆(御中間頭衆)」とあるので、中間にも与えられたと考えられる。ここにも「長持」に入れていたことが記されている。

 

(5)『甲陽軍鑑

又、其十日の間に、伊豆いたづまにおひて、北条家のはが伯耆・かさ原、両侍大将と、信玄家の侍大将山形、一手にて合戦の時、くび四百卅、甲州方へうつとる、北条家の家老こと々くはいぐんなり、其節、辻弥兵衛・和田賀介、鑓をあわする、鑓下の高名、川手豊左右問・長坂宮内左右衛問、其八日めに信玄公、伊豆にら山へ取リつめ、あたりの在郷ほうくわのとき、にら山城のおさへに山形三郎平衛罷有ル城より、備をいだしてせめあひあり、此節山形衆、余リにきおいかゝつておしこむ故、引取ル事なりかぬる、敵出てくいとむる時、三川牢人にかわら村伝兵衛、白キ四方に船のせんの字を黒ク書キてさし物にして、かやして鑓をあわせ、敵をおしちらし、のくほどに、六度まで鑓をあわする、「かの伝兵衛がふるまひは、信玄家にてもあまり多クあるまじい」とて、信玄公のたまふハ、「賞功不踰時ヲ」とありて、則伝兵衛をめしいだされ、御さかづきをたまハり、のしつけの御し物くだされて後、とういのはうびとして、ごいし金を、信玄公のぢしん両の手にてすくい被成、三すくひ彼かわら村伝兵衛に被下、かやうのはたらき、他所にてハ、高天神小笠原与八郎内の林平六と申ス武士、遠州づだいじと云所にて、日のうちに六度の鑓をあわすると、此かわら村と、近代にはなはだ以のはたらきなり、

河原村伝兵衛 - Wikipedia

 

河原村伝兵衛は「山県同心」と呼ばれる山県昌景配下の人物。ただし、見ての通り「三川牢人にかわら村伝兵衛」とある。知識不足で「山県同心」がどういうものなのか良くわからないが、「牢人」すなわち「主人を持たない武士」であるから、語義的には「侍」ではないと思われる。信玄も「かの伝兵衛がふるまひは、信玄家にてもあまり多クあるまじい」すなわち武田家臣とはみなされてない。河原村伝兵衛が「のしつけの御し物」を褒美として下されたのは、伝兵衛が牢人であることと関係あるのかは不明だが気にはなる。