2011-02-01から1ヶ月間の記事一覧

2月22日 今日は何の日

○太子会 622(推古天皇30)年のこの日、聖徳太子が斑鳩宮で薨去した。聖徳太子ゆかりの広隆寺・法隆寺(3月22日)・四天王寺(4月22日)等では聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われる。推古天皇30年2月22日という忌日は『上宮聖徳法王帝説』に記述されている日附であ…

古事記序文の天武天皇正当化

前にこういう記事を書いた。 ⇒大友皇子は天皇に即位したのか(「日本書紀」は大海人皇子の行為を正当化しているのか) ⇒「日本書紀」は大海人皇子の行為を正当化しているのか(その2) そのことについて、もっと深く考察した記事を書こうと思って、まず、こ…

人物史とか人気ないんでしょうね

一般人にとっては、たとえば戦国時代なら信長や秀吉や家康や信玄や謙信などの人物史や、本能寺の変や関ケ原の合戦や大坂の役とかの事件史はもっとも関心の高いことだろうと思う。テレビや雑誌でも一番取り上げられるのは、そういうものでしょう。 でも、歴史…

豊臣秀吉の伝記

「Amazon 本 豊臣秀吉 歴史・地理」で検索。検索結果1,414件。 「キーワードに関連する商品」で並べ替え上位500件をみてみた。作家の書いたものやビジネス書、児童書などを除いて歴史研究に役立ちそうなもの。 豊臣秀吉 (中公新書 (784)) [新書] 小和田 哲男…

『秀吉神話をくつがえす』

藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)を図書館で借りて読んでたんだけれど、期限がきたので返却した。俺が読んだのは、秀吉が信長に仕えはじめた頃のところまでで、それ以降は読んでない。 で、いくつか疑問点を。おそらく藤田氏が力を入れて…

中国大返し(その8)

中国大返し(その7)の続き。本能寺の変が6月2日の早朝。豊臣秀吉が本能寺の変を知ったのは3日とする史料が圧倒的に多いが4日説もあり。毛利方と和議を結んだのが4日。秀吉が高松を去った日については4日説5日説6日説がある。毛利方が本能寺の変を知ったのは…

中国大返し(その7)

中国大返し(その6)の続き。 「豊臣秀吉が織田信長の死を毛利方に伝えた」ということについて、歴史学者や歴史マニアはどう考えているのだろうか?多くの場合それについての言及さえされていないので想像するしかない。 「そんな話は信じられない。戦国の世…

中国大返し(その6)

中国大返し(その5)の続き。 桑田忠親『豊臣秀吉』(角川書店)より 秀吉が、本能寺の変の実情を、吉川元春にうちあけて、同情をもとめた−などというのは、『太閤記』の著者小瀬甫庵のつくり話であり、また、岡田玉山がえがく『絵本太閤記』の絵そらごとに…

中国大返し(その4)

中国大返し(その3)の続き。 なぜ、現代の歴史家は「豊臣秀吉が織田信長の死を毛利方に伝えた」ことを認めようとしないのか? その理由は、明記してない場合が多いので推測するしかない。 俺は、そこには現代の歴史研究を覆う「史観」が深く関係しているの…

中国大返し(その3)

中国大返し(その2)の続き。 山路愛山の『豊臣秀吉 』(岩波文庫) は数年前図書館で借りたことがあるのだが、その時は「淀殿」について調べていたときなので該当部分しか読まなかった。先日また借りてきたのだが、秀吉の出生について調べていたので、その部…

中国大返し(その2)

「中国大返し」の続き。 そもそも歴史家が勘違いしているのは「豊臣秀吉が織田信長の死を秘して毛利方と和議を結んだこと」と「秀吉が毛利方へ信長の死を知らせたこと」が矛盾していると考えている(らしい)ということだ。 なお頼山陽の『日本外史』などの…

中国大返し

⇒秀吉「中国大返し」の謎(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10) の続き。 本能寺の変の報を聞いた豊臣秀吉は毛利方と和睦した。 「その際に秀吉は毛利方に信長の死を伝え協力を要請した」 などというとトンデモ視されてしまう。 しかし、これ…

中国大返し(その5)

中国大返し(その4)の続き。 鈴木眞哉氏の『戦国時代の大誤解』(PHP新書)に、 この点については、秀吉は、毛利家に真実を告げて正々堂々と和議を結んだという説がある。その結果、毛利家の応援も取りつけて、旗印などを借り受けたので、それが山崎の戦いで…

福沢さん家の中村さん

家族の中で名字が違うといえば、俺が思い浮かべるのは福沢諭吉。 なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤家に復する。 ⇒福澤諭吉 - Wikipedia 養子になったとはいっても、養父の中村家で育て…

徳川家康の改姓

さて、今日の記事は、 ⇒選択式夫婦別姓議論と「日本人の姓/名字」の歴史[絵文録ことのは]2011/02/15 に刺激を受けて書いているんだけれど、「夫婦別姓」については俺は既に書いているので略。 (以前の記事) ⇒夫婦別氏(その2) ⇒夫婦別姓問題に関してあ…

豊臣秀吉と前例主義

前例主義といえば日本の朝廷も前例主義で有名だ。 羽柴秀吉の出自については色々な説があるけれど、とにかく素性がわからないということだけは確かだ。その秀吉が関白・太政大臣になるというのは前例の無いことだ。そこで秀吉は近衛前久の猶子となり藤原氏に…

前例主義

昔漫画喫茶で読んだ横山光輝の『史記』だったか『三国志』だったか良くは覚えてないんだけれど、そこにあった話。 どこかの国の王が敵を攻める作戦を考え付いて、でもそれは「義に反するのではないか」みたいに憂えていると、軍師が出てきて「かつてどこそこ…

何年続いたら「伝統」なのか?

最近「創られた伝統」という視点で、「我々が伝統だと思っているものは、実は明治以降たかだか100年程度の短い歴史しかもたない」ということがよく言われる。しかし、100年、150年と続けば、それは立派な「伝統」ではないのか?って疑問が生じる。一体何年続…

金柑頭

「語源由来辞典」より。 明智光秀が織田信長に「金柑頭」と呼ばれていたことから、この語が生まれたとも言われるが、明智光秀のあだ名となったのは、司馬遼太郎の小説に由来し、そこから「明智光秀=ハゲ頭」という図式ができたのであり、語源と関連する話で…

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その5)

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その4)の続き。 沙門之作法には疎く、世間之取沙汰には、十を悟れる智世に勝れ、取分勇道之物語をば、甚以すき給ひつヽ、稚心にも、出家は乞丐之徒を離れざる物を、と思召、万雅意に振廻給ひ、僧共にいとはればやの心…

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その4)

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その3)の続き。 出於襁褓之中より、類ひ稀なる稚立にして、尋常之嬰子にはかはり、利根聡明なりしかば、出家させ禅派の末流をも続せ、松林之五葉を昌んにせばやとて、八歳之比同国光明寺之門弟となしけるに、 赤子の秀…

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その3)

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その2)の続き。 『真書太閤記』の太閤伝説と武蔵坊弁慶の伝説は類似している。それだけなら、『真書太閤記』は弁慶伝説を下敷きにしたものだと考えられるというだけのことだ。 ところが話はそう単純ではないと俺は考え…

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その2)

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その1)の続き。 『真書太閤記』とはどういう史料かというと、桑田忠親『豊臣秀吉』(角川書店)によれば、 『真書太閤記』は、江戸中期を少しくだった安永年間(一七七二-八一)に、大坂の講釈師の口演を筆記したと称…

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その1)

『真書太閤記』が武蔵坊弁慶の伝説(特に『弁慶物語』と非常に似ているということを、この前指摘した。 ⇒『真書太閤記』の類話 ネットで検索してみると、蜂須賀小六との出会いが義経と弁慶の出会いに似ているという話はある。ただし日吉丸=義経、小六=弁慶…

小瀬甫庵史観と墨俣一夜城伝説

「小瀬甫庵史観」の続き。 小瀬甫庵の史観がどんなものだったのかを考えた上で『太閤記』は再検討する必要があると俺は思っている。たとえば「墨俣一夜城伝説」。 墨俣一夜城伝説については有名なのでここで詳しく説明はしない。 1561年(永禄4年)5月の織田…

小瀬甫庵史観

「歴史学と伝説の歪曲」の続き。 上の記事をなぜ書いたかといえば、小瀬甫庵の『太閤記』をどう評価するのかということと関係するから。 このことについては前にも ⇒秀吉「中国大返し」の謎(その4) で書いた。 小瀬甫庵は織豊期の研究者の評判が悪い。ボロ…

歴史学と伝説の歪曲

これはたとえ話なんだけれど。俺がお年寄りから伝説を聞いたとする。伝説は何でもいいんだけれど、たとえば「浦島太郎」の伝説を聞いたとする。そして、その話をこれも何でもいいんだけれどたとえばブログにでも書いたとする。それを見た誰かが「そんなこと…

『真書太閤記』の類話(その4)

『真書太閤記』の類話(その3)の続き。 ○訴えられる編『真書太閤記』 さても光明寺の僧徒は日吉丸を憎み罵りけれれ口賢ければ何時も僧徒を云い込め、一つもかれ等が下知を受けず。是に依りて和尚へ斯く告げしかば和尚の曰く、然らば我膝元に置て召し使うべ…

『真書太閤記』の類話(その3)

『真書太閤記』の類話(その2)の続き。 ○寺修行編『真書太閤記』(腕白なので寺に預けられる) 然るに成人するに随い頑童にて親の手にも余り、六七歳の頃は隣家の小共と遊ぶに年より少なけれども気象者にて決て他の小共の下に就ず。依って近隣の輩ら実に形…

『真書太閤記』の類話(その2)

『真書太閤記』の類話(その1)の続き。 ○出生後の反応 『真書太閤記』(父が近隣の悪口からかばう) 月の延しには似ず尋常の小児とは違い、甚だ小さく猿の如く成りしかば、隣家の輩らその名を猿之助とぞ唱えける。尤も生れ出た当座は何れの子も色赤は常なれ…