『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その3)

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その2)の続き。


『真書太閤記』の太閤伝説と武蔵坊弁慶の伝説は類似している。それだけなら、『真書太閤記』は弁慶伝説を下敷きにしたものだと考えられるというだけのことだ。


ところが話はそう単純ではないと俺は考えている。


『真書太閤記』が弁慶伝説に似ているということに気付かないで、小瀬甫庵の『太閤記』を読めば、それが弁慶伝説に似ているようにはとても見えない。甫庵の『太閤記』には『真書太閤記』に描かれているような異常出生譚は書いてないということは既に書いた。


しかし、『真書太閤記』が弁慶伝説に似ているということに気付いた後に、甫庵『太閤記』を読んでみると、甫庵『太閤記』にも弁慶伝説の片鱗があるようにみえてしまうのだ。


もちろん、それはそういう目で見るからそう見えてしまうという可能性もある。俺は「秀吉皇胤説」は秀吉時代に存在せず、後世にある「皇胤説」から遡って、その時代にも「皇胤説」があったかのように見えてしまっているのだと考えていることは既に書いた。


だからこれは慎重に検証する必要がある。


というわけで、ここでそれを検証してみる。なお『太閤記』は桑田忠親校訂(岩波書店)より引用する。

其始を考るに、父は尾張国愛智郡中村之住人、筑阿弥とぞ申しける。或時、母懐中に日輪入給ふと夢見、已にして懐妊し誕生しけるにより、童名を日吉と云ひしなり。

『真書太閤記』では父は「弥助」で後に隠居して「竹阿弥」と号すとあるので弥助と竹阿弥は同一人物。幼名は「日吉丸」。日輪を夢見て懐妊するのは同じ。ただし『太閤記』には日吉権現に祈るとか、十三ヶ月目に出生するとかの「異常出生譚」は書いてない。すなわち弁慶伝説との類似は「夢」のみ。


だから、この話は弁慶伝説とは関係ないように見える。日輪懐胎説が既に秀吉時代に存在することは確実であり、単にそれを採用しただけかに見える。また「筑阿弥」(竹阿弥)については『太閤素性記』『朝日物語』にもあるので、この時代に流布していたのだろう。しかし「日吉」については今までに無い情報で、それがどこから来たのか不明。甫庵の創作だという説もあるけれど根拠は無い。


仮に創作だとしても、『真書太閤記』に日吉権現に祈願して出来た子で、日輪の瑞相もあるので「日吉丸」としたという話と同様の連想から来たものであると考えるのが自然だろう(単に「猿」→「日吉」の連想という可能性もあるけれど)。


ところが、『弁慶物語』によれば、弁慶は若一王子に祈願して出来た子であり、そして五條の大納言が若一王子に祈願して拾った子で「若一」と名付けたとある。


『弁慶物語』は室町時代に成立したものであり、『太閤記』より先に出来たことは言うまでもない。すなわち、太閤記』の秀吉伝説は『弁慶物語』の影響がある可能性を否定できないのである。


(さらに検証は続く)