『真書太閤記』とはどういう史料かというと、桑田忠親『豊臣秀吉』(角川書店)によれば、
『真書太閤記』は、江戸中期を少しくだった安永年間(一七七二-八一)に、大坂の講釈師の口演を筆記したと称する『太閤真顕記』十二編の、一編ずつを三十巻ずつにひきのばし、それに、小瀬甫庵の『太閤記』をはじめ、竹中重門の『豊鑑』、林羅山の『豊臣秀吉譜』、竹内確斎の『絵本太閤記』などの諸説を参酌して、栗原柳庵という故実家が編集したものであって、幕末の嘉永五年(一八五二)に初編と二編が、江戸の知新堂から出版され、これが明治にいたって、十二編三百六十巻をもって、完結したものである。
諸書を参酌した考証のわずらわしさのわりあいに、史書としての正確さにとぼしいのは、やはり『太閤真顕記』などという俗書を、おもな出典としたためであろう。こころみに、秀吉誕生の記事を見ると、「此の児の相こを異体なれ。色赤く、猿まなこにして、眼中するどく、瞳子二つあり。ほほ先に五つの黒あざありて、さながら、猿のごとくなり」とあるが、漢の高祖と楚の項羽をミックスしたような話で、事実とはうけとりかねる。
とある。
漢の高祖劉邦は母が龍の夢を見て出産したという。項羽は重瞳だったという。
⇒劉邦 - Wikipedia
⇒重瞳 - Wikipedia
それはそうだが、この手の話は他にもいっぱいある。『真書太閤記』のこの記事は事実ではないだろう。そんなことはわざわざ歴史家に言ってもらわなくても、並の思考力があれば理解できる。
この部分『絵本太閤記』では「生まれながら歯を生じ、その面猿に似たり」とあるのみだから、瞳が二つあるというのは『真書太閤記』のアレンジの可能性はある。歴史家は「史実」を探求するものであるから、秀吉の瞳が二つあったというのは事実なのかということが問題点になるのだろう。それはそれでわからなくもない。
だけれど、秀吉が生れた時に異常な姿であったという点でいえば、『絵本太閤記』に既にそう書かれている。すなわち『真書太閤記』は『絵本太閤記』もしくは当時既に存在した同種の伝説を引き継いでいると考えられる。
俺にとっての最大の問題はこの「異常出生譚」(子授け祈願と長い懐妊期間と異様な容貌)の原型がいつからあるのかということだ。
『太閤素性記』には秀吉の幼名が「猿」とあり、また「猿かと見れば人、人かと見れば猿」と秀吉の容貌を描写している。ただし生れた時に顔が猿に似ていたとは書いていない。
ここに二つの可能性がある。
一つは『太閤素性記』の時点で異常出生譚が存在したけれど、『太閤素性記』に採用されなかった可能性。
もう一つは『太閤素性記』が成立したのは江戸時代初期(1625〜1676の間)のことだと考えられているけれど、その時点では、秀吉の異常出生譚は存在せず、ただ猿に似ているとだけ伝えられていたものが、後に発展して出来たものだという可能性。『太閤素性記』には、日輪懐胎説が信用できないとしながらも紹介されているけれど、異常出生譚は一切書かれていない。
また小瀬甫庵の『太閤記』も日輪懐胎説が紹介されていて、童名を「日吉」というとあるが、異常出生譚は出てこない。
したがって、絶対にそうだとは言い切れないものの、異常出生譚のみに注目すれば、この伝説は後に出来たもので、江戸時代初期には存在しなかった可能性が高いと考えられる。
ただし、繰り返すが、異常出生譚のみに注目すればだ。
(続く)