服部英雄氏の秀吉論について(その3)

昨日は『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄 山川出版社)「第二部 豊臣秀吉 第九章 少年期秀吉の環境と清須城下・繁栄と乞食町」について気になったことを書いた。


次に「第十章 秀吉の出自」について。


「はじめに」に以下の文章がある。

 秀吉(藤吉郎)は養父筑阿弥と折り合いが悪く、家を出て放浪していた。矢作川ではつながれていた船の中で寝ていたという。(p560)

いきなり大問題である。これは一体いかなる史料に載っている話なのか?


筑阿弥が養父だというのだから『太閤素性記』だろうか?ところが『太閤素性記』には秀吉が義父と折り合いが悪かったなどとは一切書いてないのである。なお『甫庵太閤記』『絵本太閤記』『真書太閤記』では筑阿弥(竹阿弥)は実父。また放浪した理由は「絵本」「真書」によれば奉公しても長続きせず転々とし、ついに仕事を放りだして出奔したのだ。


養父と折り合いが悪かったどころか、「父」と折り合いが悪かったという話ですら、著名な史料には載っていないのだ。


この話は一体どこから出てきたのだろうか?小説(司馬遼?)やテレビドラマからだろうか?しかし後でも

その中村で藤吉郎は義父と折り合いが悪く、親元を出ていく。(p566)

と書いてある。前者は「という」とあるから「世間で流布している」という意味で受け取ることもできるが、後者はそうではない。まさか小説やドラマで論を立てるとは思えないから何らかの根拠があるのだろう。しかしそれが何なのかわからないのだ。


ただし、一つ思い当たることがある。それは小和田哲男氏の『豊臣秀吉』(中公新書)だ。ここに、

生活に多少とでもうるおいがあれば、継父筑阿弥と秀吉との仲はうまくいったかもしれない。ところが、生活がぎりぎりという状況では、なにか些細なことでも衝突の原因となり、秀吉はしょっちゅう継父筑阿弥に折檻される状態だったことが予想される。

とある。服部氏がこの本を参照している箇所があるので、この部分も小和田説を採用したのではあるまいか?しかしながら、これは小和田氏の妄想ともいうべきものであり、史籍集覧所収の『太閤素性記』にそんなことはほのめかし程度のことさえ書かれていない。


服部氏が『太閤素性記』を直接読んでいることはほぼ間違いない。にもかかわらず何でこんなことを言っているのか甚だ疑問に思うところだ。


※ なお小和田氏への批判は既に前に書いているので参照されたい。
『太閤素性記』の類話(その1)2011-02-08
また小和田氏の主張はあまり他の学者に取り上げられることがなく、積極的に取り上げられている場合、その学者もまた「それなりの学者」だと思うということはつい先日書いたばかり。
蕨の粉 (番外2) 2013-02-18


※ なお『太閤素性記』は服部氏自身が指摘するように複数の情報源から成り立っている。「木下弥右衛門」死去の後に竹阿弥が秀吉の母と夫婦になったという記事と、秀吉流離譚の記事とに整合性があるとは限らないということも考慮に入れなければならないだろう。



ところで最初に戻って、

 秀吉(藤吉郎)は養父筑阿弥と折り合いが悪く、家を出て放浪していた。矢作川ではつながれていた船の中で寝ていたという。(p560)

だが矢作川ではつながれていた船の中で寝ていた」というのもまた出典不明な話である。もちろん『太閤素性記』にそんなことは書いてない。


有名なのは日吉丸と蜂須賀小六の出遭いで「秀吉が矢作川の橋の上で寝ていた」というものだ。この話は事実でないというのが定説だ。当時矢作川には橋が架かってなかったからだ。


そこでふと思うのだが、「矢作川に橋が架かっていなかった=事実でない」と考えるところを「何らかの史実が含まれている」と考えて橋の代わりに「船橋」をそこに当てたのではないだろうか?「つながれていた船」と書いてあるのがそれっぽい。すなわちこれは「神話・伝説の合理的解釈」なのではないだろうか?それを服部氏がしたのではなくて、他の書物に書いてあるのを服部氏が採用したのかもしれないが、非常にアヤシイ部分である。