豊臣秀吉と「猿」(その2)

豊臣秀吉と「猿」(その1)の続き


豊臣秀吉が信長家臣時代に「猿」と呼ばれていた「証拠」とされるのが、

  猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候、
 又一□を差遣候、其面無油断雖相聞候、猶以可入勢候、
 各辛労令察候、今日之趣徳□ニ可申越候也、

「猿」は誰だ? - 膏肓記
という信長文書の存在だ。


この「猿帰候て」の「猿」が秀吉のことだというのだ。


ところが、桐野作人氏が上の「膏肓記」の記事で指摘するように問題点が多い。特に問題なのが、いくら信長とはいえ公式文書で秀吉を「猿」と呼ぶだろうかということだ。


俺は有り得ないと思う。というか常識的に考えれば、こんな説はトンデモの類だろう。誰だってそう思うはずだ。


ところが「事実は小説よりも奇なり」で、この説は結構受け入れられていたりする。


その理由は、この文書に「一□」とあるのは『綿考輯録』という史料で「一若」とされており、「一若」は『太閤素性記』で秀吉と同じ中々村の人で信長の小人頭だと書かれているからだ。『太閤素性記』によれば秀吉の幼名は「猿」である。


とすれば、「一若」が登場する文書に「猿」という文字があれば、その人物が秀吉であるようにも考えられる。



しかし、俺はここに大いなる問題が見過ごされているように思われる。桐野氏は、

秀吉と同郷の一若が実在したことはほぼ確実である。なお、ガンマクも本能寺の変を安土に急報した人物である。

とする。「猿」が秀吉であることに懐疑的な桐野氏でさえ『太閤素性記』の記述を疑っていないのだ。


だが、それほど『太閤素性記』という史料は信用できるものなのだろうか?


『太閤素性記』の歴史研究者にとっての位置付けは、全面的に信用はできないが、比較的信用できる史料というものだろうと思う。この全面的に信用できないというのは、たとえば秀吉の父が「鉄炮足軽」と書かれているが、当時はまだ鉄炮は日本に無かったといったこと等についてであろう。そういう問題点があるとしても、信用できるとして実際に『太閤素性記』を基礎にして考察しているケースは多い。


しかし『太閤素性記』の秀吉が若かりし頃の記事は、歴史研究者から見ればそれほど荒唐無稽なものではないのかもしれないけれど、俺から見れば非常に物語的・神話的要素に満ちたものだ。『太閤素性記』の秀吉の伝記が事実であるならば、それは驚くべき奇跡であるようにすら思える(このことについてはいずれもっと詳しく書きたい)。


俺に言わせれば、『太閤素性記』は『真書太閤記』や『絵本太閤記』よりも「歴史史料」としては信用できない(まあ、これは云い過ぎかもしれないが)。


(なお、「物語・神話研究」としては貴重な史料だと思う)



さて、『太閤素性記』は比較的信用できるという先入観を取っ払ってしまえば、上の文書に関して別の考え方が可能だ。


それは、上の文書の「猿」が秀吉ではない、というだけではなく「一若」は秀吉とは関係のない人物だという可能性だ。すなわち『太閤素性記』の記事はまさに、この文書を元に作られたものであり、著者(伝説の作者は別にいるのかもしれないが)はこの文書の「猿」を秀吉だと考えたが故に「一若」を秀吉と同郷の人と設定して件の記事を書いたのではないかという可能性だ。


その可能性は十分にあると思うがいかがだろうか。


※『真書太閤記』の「物語的・神話的要素」については、ほんの一部だが前に書いた。
秀吉と河童(トンデモ第二弾)