秀吉と蜂須賀小六の出会いについて

『太閤素性記』によれば、秀吉と松下加兵衛は「牽馬の川」で出会ったことになっている。一方小瀬甫庵の『太閤記』によれば、

二十歳之比、遠江国住人松下加兵衛尉と云し人に事(つか)へしが

と簡略に書かれているのみ。これが『絵本太閤記』では順光坊という僧の下僕として東国に下る途中で松下加兵衛の家に泊まった際に加兵衛の目に留まり、加兵衛が順光坊に乞うて下僕にしたとする。『真書太閤記』も同じだが、それに加えて加兵衛の家中の者が秀吉の容貌が猿に似ているので笑い、それを聞いた加兵衛の妻が可笑しく思い夫に語ったとある。これは『太閤素性記』の浜松城の飯尾豊前の娘らが「猿」を見て笑ったという話と類似する。


もちろん『絵本太閤記』や『真書太閤記』はずっと後世に書かれたものであり『太閤記』や『太閤素性記』を元にして潤色・改竄されたものだという理解は可能で、というかそういう理解が一般的だけれども、俺は既に何度も書いたけれどそうは思わない。『絵本太閤記』や『真書太閤記』は甫庵の『太閤記』を膨らませて面白おかしく書いたものではなくて、話は逆で『太閤記』こそが本来の「物語」から甫庵が荒唐無稽だと考えたり、無用だと考えたりしたものを削ぎ落としたのだと思うのだ。その方が辻褄があっている(そんな主張は俺以外誰もしてないだろうけれど)。


そのように考えた場合、『太閤素性記』もまた秀吉と松下加兵衛の出会いが「牽馬の川」で、飯尾豊前浜松城で家中の者が秀吉を見て笑ったというのは、意図的な改竄ではないのだろうが本来の「物語」が変化したもので、本来は『絵本太閤記』や『真書太閤記』のように、僧に連れられて加兵衛の屋敷に行ったという話だった可能性は十分あるように俺には思われる。


これは秀吉の若かりし時代を考えるときに極めて重大な問題となる。けれども、そのことはとりあえず置いといて『絵本太閤記』や『真書太閤記』に書いてある有名な話について。それが秀吉と蜂須賀小六の出会い。秀吉が岡崎の矢作川に架かる橋の上で寝ていると、野盗の小六が秀吉の頭を蹴ったという話。


俺が何を言いたいのか気づいたと思うけれど、秀吉と小六の出会いも川が関係しているのだ。しかるにこの話は『太閤素性記』には出てこない、一方『絵本太閤記』や『真書太閤記』には秀吉と加兵衛が川で出会ったという話が出てこない。つまりどちらか一方の話だけが書かれているということ。これは本来はどっちかの話だったのが変化したものだと考えられる。普通に考えれば『太閤素性記』の方が先なのだから、秀吉と加兵衛が川で出会ったというのが本来の話だったのではないかと考えられるところだけれども俺はそうは思わない。秀吉と小六の出会いこそが本来の話だったのだろうと思う。


さてこれも前に書いたことだが、『絵本太閤記』や『真書太閤記』における秀吉の出世から信長に仕えるまでの話は「弁慶物語」に瓜二つである。弁慶は生まれた時の姿が醜く実の親に捨てられ、養父によって寺に入れられたが、寺で乱暴者として恐れられ寺を出て放浪し、その後に京で平家の侍を襲い刀を奪っていた。そのときに牛若丸と出会ったのは有名な話。ただし「弁慶物語」では五条大橋ではなく北野神社で出会ったことになっているけれど。この部分は違うけれども、それ以外は『絵本太閤記』や『真書太閤記』とそっくりだ。秀吉と蜂須賀小六の出会いが、本当は当時は架かっていなかった橋の上でなければならないのは、牛若丸と弁慶になぞらえているのはほぼ疑いない。もっとも秀吉=弁慶のはずなのに、ここでは小六=弁慶になっている。ただし、そもそも牛若丸も実父の義朝と死別して養父の一条長成鞍馬寺に入れられ、天狗に武術を習い、やがて寺を出奔したという経歴の持ち主であり弁慶の同類である。ちなみに大江山酒呑童子は一説には「捨て童子」が訛ったものと考えられ、それと戦った源頼光の部下の坂田金時(金太郎)は山姥の子で熊と相撲をとって武者修行してたのであり正義と悪の違いはあれど同類なのだ。


で、史実の蜂須賀小六は野盗ではなくてれっきとした武士だと考えられているけれども、ここで蜂須賀小六が野盗になっているのは小六=弁慶だからであろう。しかるに甫庵の『太閤記』でも

当国には、夜討・強盗を営みとせし其中に、能兵共多く候。

とあり、小六は野盗だと書かれている。甫庵の『太閤記』には秀吉と小六の橋の上での出会いは書かれていない。で、既に書いたように甫庵の『太閤記』の方がずっと前に書かれたものだから、甫庵の『太閤記』を元にして話を膨らませたように見えるだろうけれども、そうではなくて甫庵がその話を荒唐無稽または無用だとして採用せず、しかし「小六は野盗」の部分だけが残ったのだと考えた方が理に叶っていると思うのである。一方、『太閤素性記』は秀吉と小六の出会いが、秀吉と松下加兵衛の出会いにすり替わったのであろう。


ではなぜすり替わったのかと考えるに、それは意図的な改竄というよりも、秀吉と松下加兵衛の出会いがそのようなものであっただろうと考えられる理由が存在し、自然にそうなってしまったのではないかと思うのである。