羽柴=橋場説について(その3)

『太閤素性記』によると松下加兵衛と「猿」の秀吉が出会ったのは「牽馬の川(引馬川)」とされている。原文だと

濱松の町ハヅレ牽馬ノ川ト云邊ニ白キ木綿ノ垢ツキタルヲ著テ立廻ラル

この「牽馬の川(引馬川)」というのは現在「馬込川」と呼ばれている川のことであるらしい。地図を見るとまさに浜松の町はずれを流れている。


ただし、当時と現在では大きく様相が変化しているらしい。それどころか『太閤素性記』が書かれたとされる寛永2年(1625年)から延宝4年(1676年)の頃でも、秀吉幼少期とは大きく異なっている。

元亀・天正年間の1573年、当時浜松城主であった徳川家康遠江を領有していたが、天竜川流域を境にして激しく争っていた武田信玄武田勝頼から本拠地である浜松城三河を防衛するため、また新田開発を実施して収穫高を増やして国力を高める目的で天竜川の整備を始めた。第一次小天竜(現・馬込川)の締め切り。及び右岸堤防、寺谷用水取入口に伴う左岸堤防構築を計画。1588年(天正16年)には「伊奈流」治水事業で名高い伊奈忠次に治水事業を命じる。1590年(天正18年)に家康が豊臣秀吉の命で関東に転封された後も天竜川の治水事業は後任の浜松城主・堀尾吉晴に引き継がれ、翌1591年に一応の治水事業は終了した。

江戸時代における下流域の治水事業では彦助堤の築造が代表的である。一応1573年家康により西側の河道(小天竜)が締め切られたが、天竜川の流れに対して耐えられる工事内容ではなかった。従って、それ以後も大雨の度に小天竜の河道に水が乱入して洪水被害が発生していた。1656年に彦助堤は、小天竜の完全な締め切りを目的に築造された。松野彦助は浜北村(現浜北区)の庄屋で大地主であった。しかし、1674年の大洪水で彦助堤は崩壊してしまった。翌年1675年に復旧した。そして1745年に彦助堤が切れた時に発生する被害予測を「天竜川通水工附帳」として、浜松藩および幕府にさしだした。(その後、藩・幕府の対応記録は無い。)

天竜川 - Wikipedia

元々は天竜川の本流であり、遠州平野(浜松平野)の西側と東側に分かれて遠州灘に流れていた。その名残として現在、静岡県立浜名高等学校の西側に「天宝堤」が史跡として残されている。その当時は、麁玉河(あらたまがわ)と呼ばれていた。

馬込川 - Wikipedia

 【河道の変遷】天竜川は、もといまの馬込川(奈良時代の「あらたま川」、平安時代は広瀬河、山科言継(やましなときつぐ)は引馬川と、その日記に書いてある。)を流れていた。それが中世の末までに大きく変化する(天竜川本流の変遷については、谷岡武雄「天竜下流域における松尾神社領池田荘の歴史地理学的研究」『史林』第四十九巻第二号を参照)。

ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム


河道が変遷すれば認識も変遷する。この「物語」の原型ができたときと、『太閤素性記』が書かれたときでも認識のズレが生じていたかもしれない。


ところで『太閤素性記』によれば松下加兵衛は「久能の城」(袋井市)の城主である。しかし史実では「久野城」はずっと後の天正18年に出世した秀吉が家康を関東に移封させ、その際に久野城主の久野氏も下総に移りその後に松下氏が城主となったのだ。史実では松下氏の城は頭陀寺城(浜松市)である(ただしこれも伝承によるもので確かなことではないっぽい)。


久野城であろうが、頭陀寺城であろうが、浜松城に行くには馬込川(引馬川)を渡る必要がある。ただし久野城の場合は現在の地図で見れば一級河川天竜川も渡らなければならない。一方頭陀寺城の場合は渡る必要がない。『太閤素性記』が「牽馬の川」をどのように認識していたのかが気になるところだが良くわからない。久野城主にしたのは単なる時代考証の誤りか、それとも久野城主でなければならない必然性があったのか?


なぜそこに関心があるかというと『太閤素性記』の核心部分はこの松下加兵衛が「猿」を「牽馬の川」の河原で発見したというところにあるのではないかと俺は思うからだ。


既に書いたように『太閤素性記』の史実性は皆無だと俺は考える。であれば出会いの場はどこでも良いはずだ。松下加兵衛が浜松城に向かう必然性もない。加兵衛が浜松城に向かったのは「猿」と川で出会う必要があったからだ。それが無ければ猿が城の周囲を徘徊していたという話でも構わないはずだ。


なぜ「牽馬の川」で出会わなければならなかったかといえば、一つは昨日書いたように「牽馬」が「猿が馬を引く」に通じるからということが考えられるけれど、これは川でなくても構わない。浜松を含む周辺一帯が「引馬」なのだから。これは秀吉と川との重要な関わりを暗示しているものと俺は考える。


では(物語の上で)松下加兵衛と「猿」が出会った場所は具体的にどこなのか?と考えるに、俺には注目すべき場所がある。


浜松には「ハシバ」という地名がかつて存在したのである。


※ というか本当は、浜松に「ハシバ」という地名があったことを知って上のような推理をしてるんだけど。


(つづく)