羽柴=橋場説について(その4)

浜松に「ハシバ」という地名が存在した。

材木町(ざいもくちょう)
 東海道線天竜川鉄橋の西岸に位置する町で、明治中期頃から製材を中心とする木材関係の工場が多くなり、中ノ町地区の国吉町と共に木材の団地化をみた。このため和田村が市に合併した翌年、それまでの大字半場を改めて材木町とした。地域の産業をよりアピールさせるためにこの町名は大きな役割を果たしている。

 大字名であった半場(はんば)は、江戸時代の長上郡半場村で、村高133石余(元禄高帳)の村勢であった。半場の地名の由来は橋場が転化したものとされている。橋場が転化したといえば橋羽(天龍川町参照)の場合も同じで、もとは橋場といわれていたという。

 天竜川右岸のこの辺りは、ちょうど鶴見や新貝の両側を流れていた天竜川の分流にあたる西派川の分流点にあたり、また、その西派川流入する支流もあって、幾筋かの流れがあり、その流れには橋が渡されていた。橋のある場所ということから橋場となり、それが半場となったといわれている。

町名の由来・材木町 ◆ 和田地区地域情報


現在「材木町」という地名の場所は、元は「半場村」で、「半場」は「橋場」が転じたものだという。また「天龍川町」は元は「橋羽村」で「橋羽(はしわ」)という地名も同じく「橋場」が転じたものだという。


江戸時代は「半場村」「橋羽村」という村があった。いつからある地名なのかはわからないけれど、「橋場」が転じたものなら相当古くからこの地は「ハシバ」と呼ばれていたのではないだろうか?秀吉若かりし時にも「ハシバ」と呼ばれていただろうと思う。


その「半場」と「橋羽」と史実上の松下氏の居城の頭陀寺城は、現在の地図で見れば天竜川と馬込川に挟まれた場所にあり、ご近所さんである。秀吉が松下氏と関係があり、頭陀寺城を訪問したことがあるのならば「ハシバ」という地名を知っていたに違いない


そもそも武士にとっての名字は

平安時代後期になると律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士が出現する。武士は自らの支配している土地の所有権を主張するために自分の所有する土地(本貫地)(名 - みょう)の地名を名字として名乗り、それを代々継承した。また荘官であれば荘園の名称を、郡司であれば郡の名称を名字とする者も現れた。

名字 - Wikipedia
というものであり、基本的には土地の名前である。「羽柴=土師場」という考えを捨てるつもりは今のところないけれども「土師場」という地名が御器所にあったという話はない。


秀吉の「ハシバ」という名字はこの浜松の「ハシバ」から取られたものではないだろうか?


もっとも秀吉は庶民の出であるからして、そういう法則は通じないという考えもできるかもしれないけれども、逆に秀吉は浜松の「ハシバ」において重要な役割を勤めていた可能性もあるように思う。松下氏と秀吉の関係は「物語」にあるような放浪する秀吉を加兵衛が雇ったというようなものではなく、秀吉の能力や秀吉の背後にあるものを介したものであるのかもしれないと思うのである。


※ 「材木町(半場)」「橋羽(橋羽郵便局にその名を残す)」「頭陀寺城」および「浜松城」と「久野城」をGoogleマップで表示した。はてなダイアリーで地図の埋め込みができないのでリンクを貼る。
地図


※ なぜ頭陀寺城の近くに「ハシバ」という地名があることに誰も注目していないのか?少なくともネット上には一件も無いと思う。それはおそらく「半場」「橋羽」が「橋場」が転じたものだという説が知られていないからだと思う。これもネットで検索した限りは上の記事ともう一件あるのみだから。
出かけよう!北遠へ−ふるさと散歩道: 「半場(はんば)」の地名は橋場の意味

角川日本地名大辞典22静岡県」に載っているとのことだが、秀吉研究者が「半場(はんば)」や「橋羽(はしわ)」の地名の由来を調べようとは中々思いつかないだろうから、今まで注目されてなかったのではなかろうか?