加藤清正毒殺説と「家康嫌い」

先に取り上げた「八陣守護城」の主役は加藤清正(佐藤正清)。幼君「小田春若丸」を亡き者にしようとする「北畠春雄」から幼君を守る清正とその後を継いだ者の物語。既に書いたように「小田春若丸」は織田三法師(織田秀信)、「北畠春雄」が織田(北畠)信雄をモデルにしていることは疑いない。


ただし、加藤清正が「北畠春雄」に毒殺されたことを見れば、これは加藤清正毒殺説に依拠していることも疑いない。したがって、「北畠春雄」は「織田信雄」の実名を憚っての名前だという体裁をとりながら、さらに「北畠春雄」は徳川家康をモデルにしているのも疑いないだろう。


非常にややこしいことになっている。そのあたりの事情は単に幕府を憚ってのことなのか、もっと複雑な事情があるのか、ちょっと今の俺の知識ではわからない。


それはともかく「加藤清正毒殺説」。


これを俺が知ったのは司馬遼太郎の小説ではなかったかと思う。だいぶ前のことなので正確な内容は覚えていない。慶長16年(1611年)3月に二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持った際に毒を盛られた云々。慶長16年6月24日に清正は死ぬから、そういう疑惑が出てくるのも自然なことではある。


ただし、小説を読んでいる頃の俺は単なる娯楽として読んでいただけだし、その後も俺の関心は本能寺の変までがせいぜいで、その後のことは今でもそんなに詳しくない。したがって「加藤清正毒殺説」についてもほとんど何も知らない。


で、検索してみれば「毒殺説」についてはいっぱい記事があるけれども、単に「毒殺説」があるというだけで、詳細がわからない。たとえば

そして死のの直後から、家康による毒殺説が飛び交った。

加藤清正はなぜ死んだのか?死因をめぐる憶測 | 英雄たちの死の真相(橋場日月)
と書いてあるけれど、それは何という史料に出てくるのかがわからない。

清正の死因は『当代記』の2年後に唐瘡(梅毒)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)とされている。一方で家康またはその一派による毒殺説もある。清正・幸長の両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々にある。根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』である。

加藤清正 - Wikipedia
「憶測も流れた」という書き方をしているから、当時そういう憶測が流れたという理解でいいのではないかと思うけれど、それは何という史料に載っているのか?

死の直前には身体が黒くなり、舌が動かせなかった事から、その死の直後から「毒殺では?」と囁かれる疑惑の死となります。

加藤清正・疑惑の死: 今日は何の日?徒然日記
ここにも「死の直後から」と書いてある。出典は不明。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」では

後世、この会見で毒饅頭(どくまんじゅう)を食わされて毒殺されたと伝説化されているが誤りで、彼の死因は脳溢血(のういっけつ)による。

加藤清正(かとう きよまさ)とは - コトバンク
と、こちらには「後世」と書いてある。


「レファレンス協同データベース」には

『毒薬の博物誌』(立木鷹志著 青弓社 1996)
(中略)
 p153-162「蒲生氏郷加藤清正」の項あり。
 「この頃、毒殺の噂が広がったのが蒲生氏郷の死である。として、岡西惟中『蒲生軍記』、『氏郷記』、『医学天正記』、幸田露伴蒲生氏郷』を紹介している。

日本の戦国時代(近世でも可)の武将の毒殺について、以下の事柄を研究した資料を見たい。1 何を使ったか... | レファレンス協同データベース
とあり、蒲生氏郷の毒殺説はあったらしい(が紹介されている史料は二次史料)。


そもそも清正死亡当時そんな噂や憶測が本当にあったのだろうか?(知ってる人がいたら教えてほしい)。ちなみに「大日本史料」で慶長16年6月24日をざっと見た限りではそんな「噂」は載ってなかった。


ただし、「八陣守護城」が成立した1807年より前に確実に「加藤清正毒殺説」があった(そこで思うのは蒲生氏郷毒殺説が書かれているという『蒲生軍記』が1695年刊行ということで、その影響によるものではないかということ(あくまで推測ではあるが)。



※ なお蒲生氏郷毒殺説とは氏郷が石田三成に毒殺されたという説らしい。

ところが郷安は氏郷存命中から豊臣秀吉の最側近である石田三成と誼を通じていた。(このため、一説に郷安が三成の意を受けて氏郷を毒殺したのではないかという説もなされている。ただ、毒殺説自体は現在ではほぼ否定されている)。

蒲生騒動 - Wikipedia


※ ウィキペディア

慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。

加藤清正 - Wikipedia
とある。『加藤清正 朝鮮侵略の実像』(北島万次 2007)には

清正と浅野幸長は(中略)そしてわれわれが一命にかけても秀頼を警固すると、淀君と秀頼を説得したのである。

とある。ウィキペディアの記述は「最新の研究成果」なのだろうか?

(追記)
加藤清正論の現在地」(山田貴司)には、清正は娘の許嫁・頼宣に「御とも」として秀頼を鳥羽に出迎え、そのまま二条城まで随行して会見に参加したとは書いてあるけれど、

家康は清正を自サイドに引き寄せた立場で臨席させた、清正は臨席せざるを得なかったと、いまは考えておこう。

と書いている。ちょっとニュアンスが違うような…


(さらに追記 18:44)
加藤清正論の現在地」(山田貴司)に重要なことが書いてあった。

会見後に行われた家康主催の「御振舞」へ清正や正則、幸長が参加した際に、「御気分悪敷」くなった参加者の存在や幸長死去の噂が取り沙汰され、豊臣恩顧の大名は毒害されかねないという見方が巷間に広がっていた事実は、同時代人のそうした認識を物語っている(『肥後国熊本様子聞書』〈新熊本市史史料編第三巻近世Ⅰ〉一〇九号文書)。

同時代に「毒殺された」ではなく「毒殺される」という噂があった


(さらにさらに追記)
『烈公間話』という史料によると加藤清正は不養生で、その理由は早死する覚悟だからだという。生きてる内に豊臣と徳川が戦うことになれば自分は豊臣に従うのが当然だ。自分が死んで我が子が徳川に従ってもその罪は軽い。これが我家相続の方便だといった。『清正記』という書にもそのように書いてある、と。まあ二次史料なんで参考として。