『新熊本市史史料編第三巻近世Ⅰ』より
肥後国熊本様子聞書
(慶長十六年)七月十日
一 今度肥後殿・大御所様御振舞之日、四月十三日ノ朝上京ニ而七人被遣候事、
一 肥後殿(加藤清正)
一 福嶋殿(福島正則)
一 寺沢嶋守殿(広高)
一 松平筑前殿(前田利常)
一 あさノ木の守殿(浅野幸長)
一 池田殿ハ亭主分之由申事、
一 其外、右の衆中も御気分悪敷之由、取沙汰申事、
一 □ノ守殿、御遠行之由取沙汰申候事、
一 此外者色々申候へ共、しかとハしれ不申候事、
一 四月廿四日ニ御能上京之由、四元竹太夫共仕たる由申事候、
(以下略)
「加藤清正論の現在地」(山田貴司)の解説。
会見後に行われた家康主催の「御振舞」へ清正や正則、幸長が参加した際に、「御気分悪敷」くなった参加者の存在や幸長死去の噂が取り沙汰され、豊臣恩顧の大名は毒害されかねないという見方が巷間に広がっていた事実は、同時代人のそうした認識を物語っている(『肥後国熊本様子聞書』〈新熊本市史史料編第三巻近世Ⅰ〉一〇九号文書)。
これって本当にそういう話なんだろうか?
なんか違うような気がするんだけれど…
「大御所様御振舞之日」とあるけれど、これは「大御所様御振舞之日、四月十三日ノ朝」であり、「大御所様御振舞」はこの日に二条城で猿楽が興行された(孝亮宿禰日次記)ことを指しているのではないかと思われ、「池田殿ハ亭主分」とあるから、家康が食事を提供したということじゃなくて、猿楽見物の前に池田輝政が亭主になった会合があったのではないかと思われ。
それでその参加者の中に「御気分悪敷」の人がいたと噂になったと。池田輝政と浅野幸長は慶長18年に死ぬ。そのことは「聞書」の筆者も、輝政・幸長両人も知る由のないことだけれども、当時すでに体調が悪かったのかもしれない。また福島正則は病と称して3月28日の二条城会見に上京しなかったから、正則も「御気分悪敷」であろう(仮病だというのが一般的だけど)。だとすればこれは「取沙汰(噂)」ではあるけれど、事実だった可能性は高い。
ただし「右の衆中も御気分悪敷之由」の「も」とあるのは「聞書」が書かれた7月10日の少し前の6月24日に加藤清正は死んでいて「聞書」にも清正の死が書かれているので、「加藤清正の他にも」の「も」だと思われる。しかし「聞書」によると清正は5月27日に熊本にて「御気分あしく」なったと書かれている(通説では熊本に下る船上でのことと言われているが)。
よって清正は4月13日時点では体調は悪くなかった。ということは「右の衆中」の「御気分悪敷」も4月13日以降のことと一応は考えられる。しかしながら「聞書」の著者の関心事が「4月13日以降に清正以外にも御気分悪敷なった者がいる(という噂)」なのか、「4月13日に会合した者の中に清正以外にも現在御気分悪敷の者がいる(という噂がある)なのか悩む。前者なら「毒を盛られた」ということになるが、後者ならそうはならない。なぜなら後者なら4月13日以前に既に「御気分悪敷」だった者も含まれるから。
どっちかというと俺は後者の方ではないかと思う。つまりここには毒殺を匂わせるようなものは書いてないのだと思う。亭主が池田輝政なのに、その輝政がおそらくは「御気分悪敷」の1人ではないかと思われるので、もしそうだったら自分で毒の入ったものを食べるなんてことは普通はないだろう。
しかしながら後世になると、そこに一工夫加えた形の毒殺説が成立することになるのだが、この時点でそこまでひねった陰謀論が誕生していたとは思えないのだ。
※ なお「取沙汰」は肥後熊本での「取沙汰」のことであろう。浅野幸長死去の噂はおそらく父の浅野長政が4月7日に死去した情報が誤って伝えられたのだろうと思う。