家康嫌いの原点『厭蝕太平楽記』

『八陣守護城』は加藤清正徳川家康に毒殺されたという説を土台にした作品。


清正が毒殺されたという説は清正が死んだ当時(慶長16年・1611年)に既に流布していたという話がネット上にあるけれども俺は未確認。ただし「加藤清正論の現在地」(山田貴司)に

会見後に行われた家康主催の「御振舞」へ清正や正則、幸長が参加した際に、「御気分悪敷」くなった参加者の存在や幸長死去の噂が取り沙汰され、豊臣恩顧の大名は毒害されかねないという見方が巷間に広がっていた事実は、同時代人のそうした認識を物語っている(『肥後国熊本様子聞書』〈新熊本市史史料編第三巻近世Ⅰ〉一〇九号文書)。

という情報があることは既に書いた。
加藤清正毒殺説と「家康嫌い」


では『八陣守護城』の清正毒殺説が何に拠るのかといえば『厭蝕太平楽記』という「実録」に拠るというのが定説らしい。


この『厭蝕太平楽記』が家康嫌いの原点であろうと思われる。


ところが『厭蝕太平楽記』の情報はネット上にあまりない。『厭蝕太平楽記』のデジタル化史料は国文研島根大学附属図書館のとがあるけれど、どっちも手書きの草書体。活字になったものは無いようだ。解説でめぼしいものは

で見ての通り全て大阪大谷大学文学部教授の高橋圭一によるもの。この研究の第一人者であろう。というか研究者が他にあまりいないのだろう。


上の記事のタイトルを見てもわかるとおり、解説といっても主に「真田幸村」が中心になっている。とはいえ貴重な情報である。

 それ以前の作品にあった家康礼賛の姿勢がなくなり、家康が全くの悪役になっていることが本作第一の特徴である。鐘銘事件では自分を呪う意などないことを知りつつ、大坂攻めの口実とする。加藤清正を毒殺するのも、片桐且元大坂城から追い出させるのも家康である。戦さは下手で、秀忠ともども幸村に追いまくられて逃げまどっている。

これまさに家康が現在嫌われている理由そのものであろう。

『厭蝕太平楽記(えんしょくたいへいらつき)』は大坂の陣に取材した実録の代表作である。前節に列挙した幸村を始めとする大坂方の活躍、家康の危難等はこの作に集約されている。成立は、かつては幕末と推測されていたが意外と早く、明和年間(一七六四〜七二)以前のことらしい。十八世紀後半には、大坂ではこの本を種に講談も読まれていた。徳川方が連戦連敗し、家康・秀忠共に切腹しようとする過激な本作は、現存する物すべてが手書きの写本。にも関わらず、古書店のカタログには、しばしばごく安価で登載されている。このことは残存する本の夥しさを証明しているのであって、江戸時代中期以来の人気の程が窺える。

『厭蝕太平楽記』は非常に人気があったようだ。読まれるだけでなく講談のネタにもなっているので余程広く流通したのだろう。『八陣守護城』のような派生作もある。当然それは人々の家康観に影響を与えただろう。民間だけではなく近代以降の史学にも影響を与えたのではないかと思われ、戦後歴史学にさえ間接的な影響があったのではないかと思われる。


これほどまでに重要な作品があまり重視されているように見えないのはなぜなのだろうか?一つは幕末に成立したと考えられていたからではないかと思われる。ただし、明治・昭和初期に書かれた『八陣守護城』(1807年成立)の解説には清正毒殺説が『厭蝕太平楽記』によるものだと書かれている。それなのに幕末成立と考えられていたというのはどういう訳だろうか?

の冒頭に「猿飛佐助が具体的に描かれた確実な資料は、明治四二年に中川玉成堂から出版された玉田玉秀斎講演、山田酔神速記『真田幸村漫遊記』である」という足立巻一という人の主張が出てくる。事実はこの『厭蝕太平楽記』に既に猿飛佐助の名が登場するのだが、注目されてなかったということだろう。


なおウィキペディアの「立川文庫」の項には

立川文庫で最も人気のあった『猿飛佐助』は、立川文庫の第40篇として1914年(大正3年)に出版された。「佐助」の名前は『真田三代記』の異本に出ているとも言われているが、その人物像は他の真田十勇士とともに山田阿鉄らの創作である。
立川文庫 - Wikipedia

とある。『真田三代記』は幕末の作品。また同じくウィキペディアの「猿飛佐助」の項には

また、1719年ごろ成立の『厭蝕太平楽記』には、九度山蟄居の際に伴った身近な家臣としてこの名前が登場する。

とあるけれど、これは今年の1月18日に書き加えられたもの。おそらく今年の大河ドラマ真田丸』の影響で、知名度が少し上がったのだろう。
「猿飛佐助」の版間の差分 - Wikipedia


真田幸村関係でも何でもいいから研究が深まることを期待したい。ついでに活字本が出れば非常に助かるのだが。


※ なお今年6月に発行された『秀吉の虚像と実像』(笠間書院)の「13 関ケ原の戦いから大坂の陣へ 虚像編(井上泰至)」に『厭蝕太平楽記』を僅かだが解説されている。「大坂贔屓への転換-『厭蝕太平楽記』」

秀吉の虚像と実像

秀吉の虚像と実像

井上氏によれば関ヶ原関係軍記および大阪の陣関係軍記・実録は「まだまだ学問的蓄積の薄い分野」だそうだ。俺もそう思う。「真田丸」がきっかけなのかもしれないが、今年になって少し注目されるようになったのだと思う。俺もたぶんその流れの中にいるのだろう。


※ ところで、家康嫌いの発信地は昔も今も「大阪」ではなかろうかと思う。『八陣守護城』は浄瑠璃だから当然大阪だし、『厭蝕太平楽記』も豊臣贔屓=反江戸・東京が根っこにあるんだろうし。