ところで藤堂高虎が江戸城を設計したというのは本当なのか?

江戸城が風水に基づいて作られた話はガセっぽい?という話 - Togetter

1603年の第二期工事からは築城の名手といわれた藤堂高虎が設計に加わるが、なんとこの人は、自分が風水をよく知らないので一旦城の設計を辞退しているんだよね

村井益男氏の「江戸城」に見える高虎と家康の会話 家康「江戸城の縄張りを命じる」高虎「え、オレ全然風水知らないんで、大丈夫ですか」家康「関係ないよ。お前みたいのがやればいいんだよ、おう早くしろよ」高虎「あざっす」 図を引いて持っていたら家康があれこれ加筆して都市計画が決まったという


初耳なので調べて見た。ウィキペディアの「江戸城」の項には外郭石壁普請と石垣普請に名前が載ってるけれど、そんなことは書いてない。
江戸城 - Wikipedia


藤堂高虎」の項には

その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢国津藩主・富田信高の宇和島藩への転封で今治周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。

藤堂高虎 - Wikipedia
とある。ただしそれが設計の功績とは書いてない。なお、

築城技術に長け、宇和島城今治城篠山城・津城・伊賀上野城膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事と堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

とあり高虎が築城の名手であったことがわかる。


グーグルで「藤堂高虎 江戸城」で検索するといっぱいヒットする。ただし出典等の根拠を書いているものがなかなか見つからない。


やっと見つけたのがこれ。

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 05:12:25.66 id:YwK2PHTm
高虎と江戸城修築

藤堂高虎は、関ヶ原合戦後の新領地伊予国の板島城工事のあと、
近江粟津に新しい城の築城(膳所城)と、
伏見城修築および石垣築造を命ぜられた。
さらに並行して、今治に自身の城も築城していった。


さて、それがようやく竣工なったところで、
江戸城修築の縄張りを命ぜられた高虎は、即座にこれを断った。
命じたのは徳川家康である。

「天下の大都城でございますれば、
方角その他よくわきまえた軍法者にお命じになったらよろしかろう。」
再三にわたって固辞したが、家康は聞き入れない。

佐渡守。よく聞け。城の縄張りに必要なのは、
攻められて持ちこたえ、
攻めて攻めるに苦労した要害の地をよく知っている、
そなたのような老功者の技術である。
よいな。辞退してはな・ら・な・い。」


(観念した)高虎は、大体の絵図ができるとその都度家康を伺った。
家康自らが筆を取って御朱を引いて修正すると、
その後、将軍秀忠に絵図を見せて説明し、承認を得た。
こうして空堀、石垣などをことごとく完成させていったのであった。
                               「玉置覚書」

高虎と江戸城修築 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ
上の話の出典が「玉置覚書」という史料だということがわかる。


ただし改竄されていることもわかる。「方角その他よくわきまえた軍法者にお命じになったらよろしかろう」が「え、オレ全然風水知らないんで、大丈夫ですか」になってる。「方角」の中に風水が含まれるのだろうか?少なくともこれは改築なのだから江戸に城を立てることは既に決まっているのである。


それはともかく、この「玉置覚書」は信用できるのだろうか?

11年には率先して妻子を江戸にあげ,縄張りを担当した江戸城が落成したため,2万石加増され,和泉守に改める。

藤堂高虎 とは - コトバンク
筆者は山本博文氏だから、これが定説ということなんだろう。


ただし、

『武徳編年集成』
「慶長十一年三月朔日、江城経始」。

この工事の縄張(設計)は藤堂高虎が担当した、とはよく知られるところですが、同書には高虎の担当は二ノ丸・三ノ丸の設計だったとあります。
『慶長軍記』によれば、本丸を拡張しようと家康が言うと、高虎は「本丸は狭い方が良いのです」と答えるので、では二ノ丸・三ノ丸を改変して拡張しよう(「二三は縄張り変わりける」)という事になり、それを言い出しっぺの高虎に任せた、という経緯だったようです。

あちらを立ててこちらも立てる: 橋場の日次記(ひなみき)
という記事もある。


よくわからん。