江戸城は四神相応の地

次から次へと新しいネタが投入されるので、書きかけのものが投げっぱなしになってしまう…

江戸城が風水に基づいて作られた話はガセっぽい?という話 - Togetter


この問題は最低でも二つに分けなければならない。
(その1)江戸は四神相応の地か?
(その2)家康は風水に基づいて江戸城を作ったのか?


江戸が四神相応の地だとしても家康がそれを意識して江戸に城を作ったとは限らない。逆に言えば後者を否定するために前者を否定する必要はない。


実際はもっと複雑だ。まず何をもって「四神相応」とするかだ。中国の風水思想でもって四神相応ではないとする主張があるが、当時の人々が考える四神相応は別のものかもしれないではないか。


次に、家康が江戸に移ったのはまだ天下を取っていない時点だ。関東移封は秀吉の命であり、江戸に決めたのも秀吉だという説もある。その後の情勢の変化で家康の立場は大いに変わった。江戸から別の場所に移動することも不可能ではなかったはずだ。にもかかわらず江戸に幕府が置かれた。したがって関東移封時のことだけ考えればよいというものではない。


次に築城には築城術というマニュアルが存在すると考えるのが自然だろう。それらには呪術的な要素が含まれていたはずだ(剣術とかにだって含まれている)。すなわち家康が「オカルト」にはまっていなくたって、普通に呪術的な要素が付随してくる可能性は高い。積極的なオカルト嫌いならば手間をかけてそういった要素を排除するかもしれないが、特に支障がなければ気にしないというのが普通だろう。今だって意識するしないにかかわらず日常生活において呪術的要素が含まれているものはいっぱいあるけれど、やったから迷信深いなどと決め付けるのは適当ではないだろう。


(ちなみに俺の理解するところでは浄土宗において「迷信」は「意味がない」ということであって積極的な攻撃対象ではないのではないかと思う。自信ないけど)


さて、大道寺友山(1639-1730)の『落穂集』によれば、江戸は四神相応の地に相叶うとある。江戸時代初期にそういう話があったのである。なおこの場合の「四神相応」とは「北高南低で東西に流れが有る」ということであり、一般的に言われる「山川道澤」ではない。これは北条流の思想であると考えられている。江戸が家康以前は後北条氏支配下にあったことは言うまでもない。


また『落穂集』には四神相応の地であっても流通に不便ならば将軍のいる所としてふさわしくないけれども、江戸は「繁昌の勝地」でもあるので家康が天下を取ってからもそのまま在城したと書いてある。


要するに「四神相応」の地を選ぶなんてことは、当時にあっては特別なものというわけでもなく「日常」に近いものであって、それをトンデモ研究者が大げさに受け取って、さらに否定者が過剰に否定している(ゆえにこっちもトンデモを含みがちになる)ということだろうと俺は思う。



※ 以前書いた記事
江戸は四神相応の地(と認識されていたか)?(その4)


※ 北条流軍学後北条氏の一族の北条氏長が祖。江戸城築城よりも後の人だけれど祖先の知識を継承していると考えるのが普通だろう。また小幡景憲の弟子なので甲州流も受け継いでいる。