弘前城と四神相応と北条流軍学

 高岡城築城に際し、軍配者沼田面松斎は長勝寺構、高岡、亀ヶ岡の三候補から占術で高岡を選んだ。他の候補地は衰亡を予感させたと云う。慶長十五年三月、高岡城築城開始。慶長十六年五月、高岡城完成。面松斎は慶長十七年に没したが、生前は高岡を四神相応の地にしようと考えていた。その遺志により、慶長十七年から城の南に溜池が造営された。これにより高岡城の東(青龍)に土渕川(流水)、西(白虎)に弘前から日本海に向かう大通り(大道)、南(朱雀)に南溜池(水地)、北(玄武)に梵珠山(丘陵)と四聖獣の全ての要素を備えることになった。また、弘前城の縄張りを担当した東海吉兵衛は北条流軍学に精通しており、全国でも珍しい北条流によって築かれた城となった。寛永五年、高岡は弘前に改められ、城名も弘前城となった。

  東海吉兵衛 (?〜1626年)
 加賀の生まれ。津軽為信に仕えて四百石を知行。一説によると関ヶ原合戦に際し、三百石で召し抱えられたと云う。兵法、特に弓に優れる。また、北条流軍学にも精通していたとされる。慶長十五年、弘前城築城の際、縄張りを担当。和徳から大石を城の二の丸堀まで引き入れたところ、病気療養中の八木織部代理人と口論になり、大脇差で殺害した。この大石はそのまま放置されたが、元禄七年、津軽信政は幕府の許しを得て本丸の東と南の石垣に石を入れている。寛永三年没。病死とも自害とも伝わる。

津軽家 家臣団(戦国時代の実像)

 沼田面松斎は初代藩主・津軽為信公の軍師として、京都と同様「四神相応」を目指し、弘前城の城地選定や町割りをした人物です。
「四神相応」とは、風水でいう繁栄を約束された地形の事で、四神は四方から降りかかる悪災を鎮め、守護する神獣のことです。
弘前城高岡城)は、東は青龍(土淵川)、西は白虎(西浜街道)、北は玄武(亀の甲町)、南は朱雀(南溜池)に囲まれています。

「沼田面松斎」: WYC心の旅

『卍の城物語―城下町弘前の誕生』(知坂元 路上社)という漫画に載ってるらしい。


ウィキペディアによれば

陰陽道・易学・天文学に通じていたと伝えられ、伝えられる話にも易学や天文を駆使した伝承が伝わっているものの(弘前城築城時の城地選定の際、土地の吉凶を占う、など)、いずれにせよ現時点での資料では、出身地等の津軽氏仕官以前の経歴および、津軽氏に仕えてからの詳しい実績等は不詳とせざるを得ない。

沼田祐光 - Wikipedia
ということらしいが、そういう伝承が江戸時代に実際にあったのだとしたら、何かしらの事実を伝えているのかもしれない。


ただし、ここでも北条流における四神相応が問題になる。弘前城は「山川道澤」の四神相応と考えられていて「北高南低で東西に流れが有る」とは違うと思われ。もっとも北条流に通じているとされるのは東海吉兵衛だから、沼田面松斎は別の思想を持っていたのかもしれない。