江戸は山川道澤の四神相応の地である

『落穂集』で大道寺友山は「北高南低く東西に流れ有を以て四神相応の地」だとしている。これは良くいわれているところの「山川道澤」の四神相応とは異なる。


しかし、だからといって、江戸が「四神相応の勝地」と呼ばれている理由が大道寺友山の定義の「四神相応」に叶うからだとは限らない。


一方、「山川道澤」説は『新・トンデモ超常現象56の真相』(太田出版)の皆神龍太郎氏の記事によると

北を守る玄武は、山を象徴している。関東で言えば、麹町台地やそこからのぞんだ富士山に対応する。東は青龍。これは川を象徴している。関東の場合は、東京の東を流れる平川か隅田川である。南は朱雀で池や海を意味する。関東では江戸湊に当たる。そして西は白虎で道を象徴している。これは、当然東海道を意味する。このように、江戸の地はまさに四神相応の吉祥の地なのである。

というものだ。そして皆神氏は

だいたい、麹町にあった台地は江戸が形作られてすぐに、平らな土地にならされてしまっている。本当に麹町台地が江戸を守る「玄武」であれば、それを削ってなくしてしまうわけがない。ましてや、そこから眺めた富士のことを玄武が守る北の山など呼ぶのは無茶苦茶だ。江戸の南西に位置する富士山が、どうすれば江戸の北方にあることになるのだろうか。

と否定している。


しかし、ここで謎なのは玄武が麹町台地だというのはどこから出てきた話なのかということだ。俺は10年以上前から疑問に思っているのだが未だにわからない(まあ、ろくに調べてないんだけど)。


確かに「玄武 麹町台地」で検索すると多くの記事がヒットする。


※ 今検索して驚いたのだが、なんと

王権と都市 - 127 ページ - Google ブック検索結果
books.google.co.jp/books?isbn=4784213961
今谷明 - 2008 - Cities and towns
中世の山城から近世の平城への大転換である。城をどこに立地すべきか、家康以前の基本思想は北京と同じ「四神相応観」である。江戸でいえば、東(青龍=川)は中川、西(白虎=長道)は東海道、南(朱雀=池)は江戸湾、北(玄武=丘陵)は麹町台地と位置づけた。

などというものまである!「と学会」の本が2001年に出てるのに2008年に今谷明氏がこんなこと書いてる。これは調べて見なければなるまい。


しかし、これは何かの史料に書いてあることなのだろうか?それとも山川道澤だとするとそれしか考えられないということなんだろうか?そこがわからないのだ。



何でそこに疑問を持つかというと、俺は
玄武とは筑波山のことだ
とほぼ確信しているからだ。


もちろん筑波山は江戸の真北にはない。だから富士山ほど方向がずれているわけではないが筑波山を玄武だとするのはおかしいという反論が予想される。


だが玄武だといったら玄武なのだ。真北にないのだから玄武ではないというのは「理論」である。理論的におかしくたって、そのような認識が実際にあったのならそれは「正しい」のだ。


何が言いたいかというと、つまり俺は筑波山を玄武だとみなしているらしき史料を知っているのである。その史料に玄武だと明記しているわけではないけれど、そこに記されているのはどう見ても「山川道澤」のことであり、北は筑波山になっているのだ。


俺は10年以上前に他のことを調べているときに偶然見つけたのだが、どうして誰もそれを指摘しないのだろうと不思議に思っている。で、その史料は何かというと、何か言うのがもったいない感じがして、前に四神相応について書いた時も悩んだあげくやめてしまった。今も躊躇しているのであった。