山鹿流軍学と四神相応と赤穂城

 1653(承応2)年、32歳の時、8月、江戸を出て、9月、赤穂着。この年、築城縄張りを行う。「山鹿素行先生日記」によれば、「大守縄張二廓虎口、招僕談之、大守自臨其地、…僕取間縄改直之」とある。「武教全書」(山鹿流兵学の教科書)によれば、概要「四神相応の地形につき、東に小河・田沢があって青竜という。南に流水があって朱雀という。西に道があって白虎という。北に山林があり玄武という」とある。赤穂城は、東に千種川があって青竜、南に瀬戸内海があって朱雀、西に備前街道があって白虎、北に山崎山より雄鷹台・黒鉄山があって玄武となっているので、素行が言う四神相応の地形となっている。

山鹿素行の履歴考

赤穂城築城と山鹿流兵学
 35歳の時、江戸で武教三部作を書いています。『武教全書』(山鹿流兵学の教科書)によれば、次のような項目(用士…地形・斥候…行軍…築城…攻城・守城…夜戦…戦法・兵具)について簡潔に書いている。例えば、四神相応の地形の事については、「東に小河・田沢があって青竜という。南に流水があって朱雀という。西に道があって白虎という。北に山林があり玄武という」とある。赤穂城は、東に千種川があって青竜、南に瀬戸内海があって朱雀、西に備前街道があって白虎、北に山崎山より雄鷹台・黒鉄山があって玄武となっているので、素行が言う四神相応の地形といえる。

忠臣蔵新聞第017号-山鹿流兵学とは

ほぼ同じことが書いてあるので元ソースが同じなんだろう。ところで山鹿素行

寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲北条氏長の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。

山鹿素行 - Wikipedia
とあり山鹿素行甲州流北条流軍学を学んでいる。ところが北条流では

北高南低で南北に長く、東西南のいずれかに川か海がある地相をえらぶ。(『江戸史料叢書 落穂集』(萩原龍夫・水江漣子校注 人物往来社

らしい。このあたりの軍学の流れがわからない。史料も容易に閲覧できそうにないしどうやって調べればいいのか…


なお赤穂城山鹿素行が築城したとは良く言われることだが、実は一部改変しただけであり、事実は近藤三郎衛門正純という人が縄張したのである(『忠臣蔵の真相』新人物往来社)。この近藤正純という人は小幡景憲の弟子だから甲州流軍学による築城ということになるだろう。


近藤正純 - Wikipedia