宇喜多直家の死因は尻はす」説への疑問(その2)

『宇喜多直家の死因は尻はす」説への疑問』のつづき

 

宇喜多直家の「尻ハス」について、前の記事は『備前軍記』を元に解釈したが、『浦上宇喜多両家記』という史料があると知る。

九年直家病気次第ニ重ル、下血の病(俗に尻ハスト云)久シク膿血下リ、一両年ハ他国ヘ出玉フ事不成、遂ニ天正九年二月十四日逝去(五十三歳也)

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(写本により文字に多少違いがあるけど意味はほぼ同じ)

 

これによれば宇喜多直家は「下血の病だったことになる。一応辞書で調べたけれど「下血」とは「肛門から血液が出ること」。

kotobank.jp「「膿血」とは「膿と血。また、膿のまじった血」

kotobank.jp

そして「下り」とは「腹を下す」などと同様の意味で、「下血」が「膿血」だということでしょう。体の外側にある「おでき」からの出血のことだとは思えない。

 

ところが、それを「俗に尻ハスト云」と説明している。だが「尻ハス」は「尻蓮(根)」であり、尻にできるできものの一種なのはほぼ確実。

 

今歴々の太夫達に、尻ばすねもあり、田虫もあり、見える所の錢瘡も、(『諸艶大鑑』井原西鶴

などの使用例あり。同じく

耳より下に流れて、少しの蓮根の跡、(『諸艶大鑑』井原西鶴

と腫物に「蓮根」という種類があることも確認できる。したがって「尻ハス」が「下血の病」という説明は誤りの可能性が非常に高い

 

だが先の『備前軍記』が土肥経平が編纂し安永3(1774)年に成立したのに対し、『浦上宇喜多両家記』は戸川達安(1567-1628)の子の戸川安吉が延宝5(1677)年に著したとされ、約100年も早い。文を比較すれば備前軍記』が『浦上宇喜多両家記』を参照している可能性は非常に高い

 

しかし繰り返すが「尻ハス」は尻にできる腫物であって「下血の病」ではない。『備前軍記』の土肥経平も不審に思ったのではないだろうか?『備前軍記』に

一說に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づる事夥し。

と、「尻はす」は腫物だとはっきりと書いている。また『浦上宇喜多両家記』が「膿血下リ」と書いてるのに対して「膿血出づる」と書いている。つまり肛門から出たはずの膿血が腫物から出たことになっている

 

これは「土肥経平の改竄」なのかもしれない。ただし元の『浦上宇喜多両家記』がおかしなことを書いているので「事実はこうだったのではないか?」と史実の復元をしたという動機ではなかったかと思われる。

 

なぜ「血の病(俗に尻ハスト云)」という誤った記述がなされたかは謎。「尻ハス」は他に「尻瘡」ほか多数の呼び方があったようで、『浦上宇喜多両家記』著者の戸川達安別の呼称は知ってても「尻ハス」と呼ぶことを知らず、腫物のことだと知らなかった可能性があるのではないか?

 

だとすれば宇喜多直家が「尻ハス」を煩っていたという情報自体は当時流通していた可能性はあるただし「尻ハス」は死因では無く「下血の病(尻ハスと呼ぶのは間違い)」が真の死因だった可能性が高いのではないか?

 

もちろん腫物から感染して「下血の病」になった可能性はある。だが『浦上宇喜多両家記』はそいういうことを記しているのではなく、単に「下血の病=尻ハス」だという間違ったことを書いているだけの可能性があるので、そこに強い関連性があると考えるのは大いに問題があるのではないか?

 

宇喜多直家は「尻ハス」を煩っていたかもしれないが、「尻ハス」と無関係に「下血の病」に罹患した可能性を無視するべきではないと思うのであります。