2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧

『元親記』と『南海通記』

『元親記』 以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり。然處に其後元親儀を信長卿へ或人さヽへ申と有聞及申處に。元親事西國に並なき弓取と申。今の分に切伐に於は。連々天下のあたにも可罷成。阿州讃州さへ手に入申候はゝ。淡州なとへ…

マボロシの「四国切り取り次第」(その3)

「以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり」(『元親記』)あるいは、「先約」(『南海通記』)というのは、長宗我部元親側の認識であり、そのことを明記した朱印状は存在しない。実際に発給されたのは 対惟任日向守書状令披見候、仍…

マボロシの「四国切り取り次第」(その2)

一次史料を元にして推測すれば「四国切り取り次第」の朱印状は存在しなかったと考えるのが妥当だ。ところが『元親記』には 以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり とあり『南海通記』には 尫弱(おうじゃく)の身ナリト云ヘトモ、四…

マボロシの「四国切り取り次第」(その1)

長宗我部元親の息子弥三郎が織田信長の「信」字を拝領したとき、同時に「四国切り取り次第」が認められたと一般に言われている。 四国の長宗我部氏に対しては、四国切り取り次第の領有を認めており、天正八年の段階でも阿波を安堵しておきながら、その後突然…

信親「信」字拝領は本当に天正6年なのか?(その2)

二次史料など信用できないと思われるかもしれないけれども、それでも検討する価値はあるだろう。 『土佐物語』によれば、元親は信長が息子弥三郎の烏帽子親とり実名の字を申し請けたく思い、使者に中島可之助を遣わすことにした。可之助は尾州に致り、元親と…

信親「信」字拝領は本当に天正6年なのか?

従来、長宗我部元親の嫡男弥三郎が織田信長から「信」字を拝領したのは天正3年のこととされていた。ところが「石谷家文書」の発見により天正6年のこととなった。その理由は12月16日付石谷頼辰宛て長宗我部元親書状で「信」字拝領されたことの感謝を斎藤利三…

石谷家文書の解読(その9)

次に 『石谷家文書』 一 此上にも 上意無御別儀段 堅固候者、御礼者可申上候、如何候共 海部、太西両城之儀者相抱候ハて 不叶候、(以下略) 盛本昌弘氏読み下し 一、この上にも 上意御別儀無き段堅固候は、御礼は申上べく候、如何候共、海部、太(大)西両…

石谷家文書の解読(その8)

引き続き 但来秋調法を以申上、可相叶儀も可有之哉と致其覚悟候 「調法」の意味は(1)重宝(2)ととのえること。準備すること。(3)「調伏法」の略。 ⇒ちょうほう【調法】の意味 - goo国語辞書 『石谷家文書』は「重宝」、盛本昌弘氏は「用意をして」と訳…

石谷家文書の解読(その7)

『石谷文書』 一 今度御請、菟角于今致 延引候段更非他事候、進物 無了簡付而遅怠、既早 時節都合相延候条、此上者 不及是非候歟、但来秋調法 を以申上、可相叶儀も可有之哉と 致其覚悟候 盛本昌弘氏の読み下し 一、今度御請菟角今に延引候段、更に他事にあ…

石谷家文書の解読(その6)

『石谷文書』 一 今度御請、菟角于今致 延引候段更非他事候、進物 無了簡付而遅怠、既早 時節都合相延候条、此上者 不及是非候歟、但来秋調法 を以申上、可相叶儀も可有之哉と 致其覚悟候 盛本昌弘氏の読み下し 一、今度御請菟角今に延引候段、更に他事にあ…

石谷家文書の解読(その5)

これは解読ではなくて解釈なんだけれど 所詮時剋到来迄候歟 これを盛本昌弘氏は もはや、戦いになる時期が来たのでしょうか。 と訳している。「時刻到来を」辞書で引けば 何かをするのに都合のよい時機がやってくること。「海外進出の―だ ⇒じこくとうらい【…

石谷家文書の解読(その5)

『石谷文書』より (天正6年か)11月24日付斎藤利三・石谷頼辰宛て中島重房・忠秀書状 尚々、愛宕よりの使僧 下国之砌、御文書頂 戴仕候、忝候、毎事得其意候 摂州表悖乱之由風聞 付而、以書状被得御意候、尤此比 条々、以使者雖可被致言上候、 海上弥猥、殊…

石谷家文書の解読(その4)

石谷家文書の天正10年5月21日付長宗我部元親書状。これについては考えなければならないことが山ほどある。できることなら本能寺の変を研究する専門家全員が、この書状の解読と現代語訳をして欲しいと思ってる。専門家の解読・解釈は、細かいところで相当異な…

少年がマヤ遺跡を発見の件とツタンカーメンの墓の隠し部屋の件

⇒15歳少年のマヤ遺跡「発見」は間違いと専門家 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト 「発見」のニュースを知ったとき「へえー」と思った。思っただけ。この手の話題は大好物なんで調べたり考えてみたりしてみたいと思ったけれど、その前にあっという間…

石谷家文書の解読(その3)

ところで信長が安土に帰城したのは4月21日。元親書状の日付が5月21日。丁度1月後のこと。当初俺は元親は信長が安土に帰還したことを知っていただろうと考えていた。しかしながら、土佐と上方との間の文書を送るのに要する日数は相当かかるのだった。 上の天…

石谷家文書の解読(その2)

なぜ(その1)のようなことを書いたかといえば、第一に一般論としてそうすべきではないのかと思うのであり、第二に俺はこの部分に納得がいってないからである。1 発表時 一 東州奉属平均砌、御馬 貴所以御帰陣同心候 2 『石谷家文書』 一 東州奉属平均、 被…

石谷家文書の解読(その1)

石谷家文書って話題になったわりに、その後の展開が今ひとつ見えてこない。俺が知らないところで研究が進んでるのかもしれないけど。石谷家文書だけでは本能寺の変の原因はわからないとか、それよりも室町幕府の研究に意義があるとか、まあその通りなのだろ…

真田昌幸の秀吉出仕について(その2)

『真田家譜』は二次史料であって一次史料より信頼性が劣る。そこをあえて信頼できると考えて検証してみる。『真田家譜』では天正15年正月7日に真田昌幸と小笠原貞慶が駿府の家康に謁したとする。 徳川家康は天正14年10月27日に大阪城で豊臣秀吉に謁見。11月1…

真田昌幸の秀吉出仕について

全く詳しくないけれど気になったんで。 ちなみに史実では逆で、真田昌幸は駿府の家康に挨拶してから上洛しました #真田丸— まとめ管理人 (@1059kanri) 2016年5月8日@1059kanri 史実通りです。考証の黒田基樹氏曰く「昌幸の秀吉出仕は天正15年2月で家康出仕は…