『元親記』と『南海通記』

『元親記』

以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり。然處に其後元親儀を信長卿へ或人さヽへ申と有聞及申處に。元親事西國に並なき弓取と申。今の分に切伐に於は。連々天下のあたにも可罷成。阿州讃州さへ手に入申候はゝ。淡州なとへ手遣可仕事程は御座有間敷と申上と云。信長卿實もとや思しけん。其後御朱印の面御違却有て。豫州讃州上表申。阿波南郡半國本國に相添可被遣と被仰せたり。元親四國儀は。某か手柄を以切取申事に候。更信長卿可為御恩義に非す。存の外なる仰驚入申とて。一圓御請不被申。

『南海通記』

信長公聞玉ヒテ謂レアル申状也即制止ヲ加ヘラルベシトテ其書ヲナシテ土州ニ下シ玉フ。其文躰厳重ニシテ私ノ兵革ヲ起ス事ヲ制止ス。阿州南方ニハ、長宗我部氏ト遺恨ノコトモ有ユヘニ是ヲ赦宥ス其外、阿波讃岐伊豫ハ信長ノ幕下ノ國ナレバ、必ズ私ノ弓矢ヲ取カクベカラズ。若違犯セシメバ土州ニ征伐ヲ加ヘラルベキ也トノ下知ナリ。

よく読むと同じことが書いてあるようで違うことについて書いてある。


『元親記』は「豫州讃州上表申。阿波南郡半國本國に相添可被遣」で伊予・讃岐を返還し、阿波南郡と土佐だけを認めるという話。


『南海通記』は「私ノ兵革ヲ起ス事ヲ制止ス」「阿波讃岐伊豫ハ信長ノ幕下ノ國ナレバ、必ズ私ノ弓矢ヲ取カクベカラズ」でこれは「私戦禁止令」。阿波「南方」については、長宗我部氏と「遺恨」があるので、信長の許可を得ずとも戦ってもよいということだろう。


後に続く文から考えるに、『元親記』は天正6年と考えられる信長と元親の認識のズレから本能寺の変に到る長期のことを記しているのに対し、『南海通記』は天正6年のことを記しているのだと思う。


だとすれば、天正6年時点の元親は「私戦」を禁じられはしたけれど、信長が許可したものなら阿波・讃岐・伊予で戦闘できたということだろう。その結果として得た城や領土はどうなるのかということが問題だが、それについてはよくわからない。しかし普通に考えれば信長によって決められるのだろう。「切り取り次第」ならば自由に戦争をし、得たものはそのまま手に入ることになるけれど、そうはいかなくなったということだと思われ。それが不満だということだろう。


そういう段階を経て、やがて「阿波南郡半國本國」(と『元親記』は書くけれど最終的には「土佐一国のみ」)ということになったのであろうと思われ。


(所用により今月はここまで)