マボロシの「四国切り取り次第」(その3)

「以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり」(『元親記』)あるいは、「先約」(『南海通記』)というのは、長宗我部元親側の認識であり、そのことを明記した朱印状は存在しない。実際に発給されたのは

対惟任日向守書状令披見候、仍阿州面在陣尤に候、弥可被抽忠節事肝要候。
次に字の儀、信遣之候、即信親可然候、猶惟任可申候也。
十月廿六日 信長 朱印
長宗我部弥三郎殿

という朱印状。元親はこれをもって「四国切り取り次第」と受け取った。しかし信長の認識は違っており、認識のズレが生じていた。というのが俺の推測。
※ ただし「四国切り取り次第」は『元親記』によるもので、元親の認識とぴったり同じものではないかもしれないが、便宜上「四国切り取り次第」ということにしておく。


ズレの原因は、1、元親の思い込み。2、信長が外交のかけひきとして意図的に曖昧な言葉を使った。ということも考えられるけれども、第3の可能性もある。


さて、石谷家文書の(天正6年)12月16日付石谷頼辰宛て長宗我部元親書状。これにより「信」字拝領は天正6年であることが明らかになったとされているけれども、俺はそうではなく、これは天正3年(と考えられる)の「信」字拝領の礼を天正6年にしたものだという可能性があると考えていることは先に書いた。なぜ3年前のことを今頃になって感謝するのかといえば、斎藤利三に当時のことを思い出ささせるため、すなわち「あのとき信長様は四国切り取り次第を認めて下さいましたよね」ということを主張しているのではないかと思うのである。


ところで「四国切り取り次第」を明記した朱印状があるのならば、それを盾に抗議すれば良いわけで、こんなことをする必要は特に無いのではないかと思われる。そのことは元親も十分理解していただろう。すなわち「四国切り取り次第」は口頭でなされたものを元親がそう受け止めたものである可能性が高い。


では、「四国切り取り次第」と元親が「誤解」するようなことを元親に伝えたのは誰かということになる。信長が直接伝えたということは無いだろう。信長の使者が土佐に赴いて朱印状を渡して口頭で伝えられたか、元親の使者が信長の居所(岐阜城だろう)に赴いて取次の者から伝えられたかのどちらかだろう。すると当然そこには斎藤利三石谷頼辰そして明智光秀が関わっていると思われる。


以上のことから考えて、明智光秀は実際に、元親に対し信長が「四国切り取り次第」を認めたと受け取れるようなことを伝えた可能性があるのではないか?と推測するのである。その証人が斎藤利三なのではなかろうか?


もし、そうだとしたら明智光秀は信長の四国政策に混乱をもたらしたことになる。そのことが明るみに出ればただではすまないだろう。そして、その鍵を握るのは斎藤利三(と石谷頼辰)ということになる。利三が信長にチクれば光秀の立場は危ういものになる。故に元親と縁戚の利三をないがしろにすることができず、元親に有利なように働かなければならない。


本能寺の変の原因として四国説がある。ただし四国説といっても複数ある。

四国政策において面目を潰されたために謀反を起したという怨恨説、あるいは四国政策の失敗やライバル秀吉に負けたことに不安を募らせたという不安説と考えたり、または四国征伐を挫折させるために長宗我部元親斎藤利三が積極的に黒幕となって謀反を起させたとすれば黒幕説や共謀説と解することも可能なわけで、まだまだ様々な解釈が存在するからである。

本能寺の変 - Wikipedia


一つ言えることは斎藤利三石谷頼辰は長曾我部元親と縁戚で、元親を守る動機があるけれども、光秀にはそれほど強い動機がないということだ。光秀は信長と元親の間で板挟みになったとも言われるけれども、最終的には信長につけばいいだけの話で、それで謀反を起こすほどのものではないと思う。そこまでして元親を守る義理はないだろう。


しかし、板挟みといっても元親を見捨てると自身の立場が危うくなる場合は別であろう。元親を見捨てれば不手際が露顕し信長の怒りが免れないような状態だったとしたならば、僅かでも生き延びるチャンスのある謀反を起こす理由になりえるのではないかと思うのである。