石谷家文書の解読(その3)

ところで信長が安土に帰城したのは4月21日。元親書状の日付が5月21日。丁度1月後のこと。当初俺は元親は信長が安土に帰還したことを知っていただろうと考えていた。しかしながら、土佐と上方との間の文書を送るのに要する日数は相当かかるのだった。


上の天正8年11月24日付羽柴秀吉宛て元親書状にも、6月19日の御返礼を8月中旬に拝見したとある。盛本氏も

秀吉の書状が元親の所に着くには一カ月半または二カ月かかっていることにも注意が必要である。

と指摘している。そして天正10年5月21日付元親書状について

この元親書状が斎藤利三のもとにいつ届いたかが問題となるが、約1カ月かかったとすれば、六月中旬頃となる。

とする。なお盛本氏の解釈では元親が5月21日に4月21日信長安土帰陣を知っていたことになるので、その知らせが丁度1ヶ月あるいはそれ以下で到着したことになる。



※ なお『大乗院寺社雑事記』(文明11年6月19日)には

一、土佐御所御書到来、去二日御書今日到来了、新三位顕郷々(卿)去月廿六日逝去、内損也、不便云々、

と、2日の書状が19日に到着したとあり17日で奈良に届いている。町顕郷は一条教房の妻の養父。


また文明12年12月7日に

土佐御所去十月四(五)日薨給候之由、注進状到来旨、

一条教房の死亡記事がある(10月4日とあるけど実際は5日)。こっちは2ヶ月かかっている。


また文明15年12月11日に

一、自土佐幡多難波次郎左衛門罷上来、去十月廿九日中村之為松・河原・宮気令同心而、難波備前守打之、次郎さ衛門被打洩上上洛了、不便次第也、

とあり、土佐より来た難波次郎左衛門が10月29日の出来事を述べているので、40日程度で奈良まで来たことになる。


日数が大きく違うのは海路を使うので風が左右するのではないだろうか(いや詳しくないんでよくわからないんだけど)。


だとすれば、信長が安土に帰陣したことを元親が知っていたかもしれないし、知らなかったかもしれない。石谷家文書の元親書状で「信長が帰陣した」と書いているのか「信長が帰陣したら」と書いているのか、『石谷家文書』と盛本氏は「帰陣した」と解読し解釈しているようだけれども、その可能性もあるが、そうではないかもしれない。ただ元親文書は斎藤利三の書状の返書だから、利三が帰陣してから書状を書いたとしたほうが良さそうではある。


ところで、盛本昌広氏は4月下旬に光秀が元親説得のために土佐に石谷頼辰を派遣したと解釈している。すなわち頼辰が利三の書状を携え土佐に赴き、頼辰に口頭で心の中を伝え、さらに頼辰に伝えたのと同じ内容を利三への書状に認めたということだろう。正直その発想はなかった。なお『歴史街道』2014年9月号の桐野作人氏の記事をよく見たら

それを携行した使者の頼辰は

とあり、桐野氏も頼辰が土佐に赴いたと考えていた。


確かにそう読めるように思えるし、それなら頼辰が本能寺の変に参加していない理由にもなる。ただしこの場合、光秀は使者を派遣しておきながらその返事を待たずに謀反を実行した可能性が非常に高いことになる。その意味するところは非常に大きいように思うけれども、今はそこまで頭が回らない。


(なお盛本氏は「四国説によれば」返事が来る前に四国攻めが開始されることになったので謀反を実行したことになるとする)