石谷家文書の解読(その2)

なぜ(その1)のようなことを書いたかといえば、第一に一般論としてそうすべきではないのかと思うのであり、第二に俺はこの部分に納得がいってないからである。

1 発表時

一 東州奉属平均砌、御馬
  貴所以御帰陣同心候

2 『石谷家文書』

一 東州奉属平均、 被納 御馬・
  貴所以御帰陣目出候

3 盛本昌広氏読み下し

一、東州平均に属し奉り、 御馬を納められ、貴所以って御帰陣目出たき候

4 盛本氏訳

一、東国を平定し、信長が帰陣なされ、あなた(利三)も御帰陣なされたのはおめでたいことです。

発表時においては、この部分

甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたい

林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー - 株式会社 林原
であった。それが「同心」「目出」になったことで大きく意味が変化した。


確かに、信長が帰陣したら指示に従うというのは妙な話で、従うつもりなら「帰陣したら」などとは言わず即座に従うべきであろう。ただし「同心」を「従う」と解釈しても
解釈次第では妙な話ではない可能性もあるかもしれない。たとえば従う内意を伝えた上で、安土に正式な使者を派遣して恭順の儀式を行うとか。ただし、そもそも「同心」の意味が「従う」だとは限らない。他の解釈も可能だと思う。


で、その線で考えていたら、『石谷家文書』では「目出」になっていた。これだと信長と(盛本氏の解釈によれば)利三が帰陣してきて目出度いという単なる挨拶的なものになる。


しかし、この解釈もまた妙に感じる。


最大の違和感は、こういうことは文章の最初に書くものじゃないの?という疑問。現代の手紙文でいえば、これは「拝啓〜お慶び申し上げます」の部分に該当するものであろう。戦国時代においては文末に書くということはおかしなことではないのだろうか?俺は詳しくないけど腑に落ちないところである。


次に、この書状には、

尚々、頼辰へ不残申
達候上者、不及内状候へ共
心底之通粗如此候、
不可過御斗候
※ 当初は「不可過御計申候」だった

とある。すなわちこの部分は石谷頼辰に残らず伝えてあることの一つとも受け取れるのだ。「利三が帰陣して目出たいということを頼辰に伝えてあるから利三に伝えるに及ばない」なんてことはまずあり得ない。ただし、それに続く

一 何事も々々々頼辰可被仰談候、
  御分別肝要候、万慶期後
  音候、恐々謹言

は利三に対するものだから、上の文も頼辰に伝えたものの中には入ってない可能性はもちろんある。


しかし、ここで一つ疑問がある。というのはこの文を「目出」とした場合、この書状には、本来入ってなければならないものが欠けているように思えるのである。それは「信長の西国攻めへの協力」だ。


盛本氏も紹介している天正8年11月24日付羽柴秀吉宛て元親書状には

一、阿・讃平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走可訽粉骨念願計候、

『証言 本能寺の変』(藤田達生)より

とあり、阿波と讃岐を平定したら西国攻めに協力すると述べている。これは当然「長宗我部元親が阿波と讃岐を平定したら」という意味だろうが、それは天正10年においては不可能になった。だからといって元親が信長に協力できないなどと拒否することができようか?書状に「拒否する」と書いてあるわけではないのは勿論だが、この状況でそれを書かないというのは拒否してるも同然と受け止められるのではないだろうか?むしろ積極的に協力することをアピールして心証を良くしようとするのではないだろうか?


ゆえに、俺はこの書状において、元親は西国攻めへの協力を申し出ていると考える。すなわち当初の

一 東州奉属平均砌、御馬
  貴所以御帰陣同心候

を採用して、「(信長が)東国を平定して、信長が貴所(安土)に帰陣したら(したので)、(次の目標である西国攻めに)同心(協力)いたします」という意味であろうと思うのである。