「石谷家文書」について

まず言いたいのは、原文をネットで公開してほしいということ。営業的な理由(ちなみに来春に吉川弘文館から本を出すそうだ)もあるんだろうけれど、非常に重要な文書なんで何とかしてほしい。写真撮影禁止なんで一部メモってきたけれど、すごい大変だった。しかも家に帰ってからメモらなかった部分がとても気になって困っている。


さて、書きたいことは山ほどあるが、俺が一番気にしているのは
本能寺の変の謎は解明されるか?(その2)
にも書いたけれど、手紙の中で長宗我部元親が「頼辰」と書いていること。

一 東州奉属平均砌、御馬
貴所以御帰陣同心候


一 何事も々々々頼辰可被仰談候、
御分別肝要候、万慶期後
音候、恐々謹言


五月廿一日 元親(花押)


利三御宿所

となっている。


大河ドラマなどで「信長様」などというセリフがあるけれど本当は間違いだ、という話は歴史ファンには良く知られているところ。諱(いみな)では滅多に呼ばないし、呼ぶとしても上の者が目下の者に対して使うのだとも言われる。


※ 実のところ、この通説に俺は疑問を持っていて、信長のことを「信長」と書いている史料が存在する。ということは以前書いたことがある。
「信長様」は間違いか?


それにしても、やはりこの「頼辰」は不思議に思うのだ。


通説によれば石谷頼辰は信長の命令で土佐まで交渉に赴いた使者であり、いわば信長の代理人である。
※ただし俺がこの通説に疑問を持っていることは昨日書いた。
「四国征伐回避説」の落とし穴


いくら親戚とはいえ、信長の代理人を「頼辰」と書くのはどうなんだ?と思わずにはいられない。ちなみに元親はこの文書で「信長の意志」を「上意」と書いている(と思われる)


ただし、そもそも信長の代理人であろうがなかろうが、石谷頼辰は元親の妻の兄、つまり義兄だから普通は目上の人ということになるし、官位も兵部少輔で元親より上ではないかと思われるので、その点でも不思議ではある。


だいたい現代人でもそういう関係にある人を呼び捨てにはしないではないか。「アメリカ人かよ!」って思ってしまうのは俺がド素人だからだろうか?そこのところを説明できる人がいるのなら是非御教授願いたいところなのである。




それと、検索してたら
新出「石谷家文書」の疑問 - 『信長考記』
という記事があり、

未だ全文の内容を知り得ていない状況下ではありますが、伝えられるところの「武田氏征伐から信長が帰ったら指示に従いたい」という内容は、その丁度1ケ月前、既に信長が安土に帰城していることからも時差があり過ぎ、また更に遡って3月初頭には武田氏も滅んでおり、条件提示としても全く政治的情勢に疎いものであると言わざるを得ません。

と書いてある。それで調べてみると

信長の命令に従い、阿波の一部から撤退し、信長が甲州征伐を終えた後に、その指示に従うことなどを利三に伝える内容などが含まれていたという。

本能寺の変・四国説後押しの新資料 - 林原美術館などが発見 | マイナビニュース
という報道があり、そういえば展示品の解説でもそう書いてあったかもしれない。


ただ、

東州奉属平均砌、御馬
貴所以御帰陣同心候

というのは、信長が安土城に帰陣するという意味ではなくて、斎藤利三が帰陣するという意味で、天正10年5月17日に明智光秀が信長より西国出兵を命じられて近江坂本に入城している、そのことを指しているのではなかろうかと俺には思われる。自信はないが「貴所」とは「あなた様(つまり宛名の利三)」という意味ではあるまいか
貴所 とは - コトバンク


そして、ここをどう解釈するのかが、文書そのものの性質に関わってくるのではないかとも思われるのである。