長宗我部元親書状にはもう1つ高村さんが指摘している問題がある。
追記が2文もあるのに、本文の行間に食い込んでいないのは原文では不自然で写しである可能性が高いように見える。
「追記」とは「尚々」で始まる部分と、「追而令啓候」で始まる部分のこと。この指摘を見たとき俺が思ったのは、まず林原美術館のサイトにある写真を見ればわかるように、「尚々」始まる部分は上部に余白がある書き方をしているのに対して、「追而令啓候」は「本文」と同じに書かれているということ。
⇒林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー - 株式会社 林原
俺はもちろん古文書に詳しくないというか無知の部類に入るけれど、林原のページにある写真を見るだけでも「追記」は上に余白のある書き方をしていることがわかる。従って「追而令啓候」は果たして「追記」なのかという疑問がある。少なくとも「追而令啓候」はこの文書を書くときに最初に書いたのであろうと想像できる。だからもし追記だとしても、追記の形式を取ったものであって本当に追加で書いたわけではないのではないかと思う。
もうひとつ思うのはもしこれが追記だとしたら、本文は「一 今度御請…」といきなり箇条書から始まることになる。これも古文書に疎い俺にはそういうのは珍しくないのかどうかということがわからないけれど素人目には不思議な感じがする。
ところで、上の記事に書いたように、この文書の内容が、天正十年正月に石谷頼辰が土佐に下向したときに長宗我部元親が頼辰に話した内容を記したものだとすると、1つの仮説が浮上する。
それは、この文書は斎藤利三が長宗我部元親に対して手紙を出し、それに対する返答として書かれたものではないかということ。そして利三が出した手紙の内容とは「私(利三)が頼辰から聞いた元親の真意はかくかくしかじかであるが、それに間違いはないか?」というものであったのではないかと推測できるのではないかということ。
それに対して元親は返事を出したということになるが、利三の手紙に対する返答としては「はい、その通りです」で済ますことも可能であったのではないかと思われる。しかしながら念には念を入れるために、頼辰に話したことの要約を手紙に記したのではないだろうか?
このように考えれば
尚々、頼辰へ不残申達候上者、不及内状候へ共心底之通粗如此候、不可過御計申候
とは、「このことは既に頼辰に(正月に下向されたときに)伝えたことですので、(問い合わせの件につきましては、答えはイエスであり、内容について繰り返して)説明する必要はないのですけれども(念のために申し上げれば)私(元親)の(正月に頼辰に伝えた)真意の要旨はこのようなものであります」となるのではないか。「不可過御計申候」については高村さん達の解釈が正しいのかもしれないけれども、俺の解釈するところの「深読みするな」つまり「頼辰が利三に話したことを素直に受け取れ」という解釈もできるのではないかと、こだわってみたりする。
ところで、「追而令啓候」だけれども『歴史街道9月号』の桐野作人氏の大意を見ると、その部分に該当するところを桐野氏は「書状拝見しました」と訳されているように思われる。このような意味での使い方がされているのか、意訳なのかはわかりかねるけれども、これが正しいとしたら、俺の解釈の傍証にもなるのではないかとも思ったりするのである。