「熨斗付」についての史料(その1)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その7)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇

 

弥助に関連して「熨斗付」について調べて見つけた興味深い史料をいくつか

 

(1)『妙法寺記』(天文21年)

此年霜月廿七日駿河義元御息女樣ヲ甲州晴信様御嫡武田大吉殿様ノ御前ニナホシ被食、去程ニ甲州一家國人ノキホヒ不及言說候武田殿ノ人數ニハ更ニ熨計付八百五十僕義元殿人數ハ五十僕御座、輿十二挺長持廿カラ女房衆ノ乘鞍馬百足御座ヽ兩國喜大慶ハ後代有間敷候其內ニモ小山田彌三郎殿一國ニ而御勝レ候

武田信玄嫡男「武田大吉(義信のことだとおもわれる)と今川義元娘(嶺松院)の結婚の記事。「武田殿ノ人數ニハ更ニ熨計付八百五十僕」の「熨計付」は「熨斗付」であろう。

 

「武田殿ノ人數ニハ更ニ熨計付八百五十僕義元殿人數ハ五十僕御座」の解釈だが、

そのお供は武田方八百五十、今川方五十、

(『妙法寺記の研究 : 富士山麓をめぐる戦国時代の古記録』萱沼英雄 1962)

僕というのはそれによって人数をあらわしたものであり、

(『甲州武田家臣団』土橋治重 1984

とあるが、何の人数をあらわしたのか明確ではない。総人数と解釈しているのではないかとも思われる。

 

だが、おそらく「熨計付八百五十僕」とは武家奉公人の数であろう。「武田殿ノ人数」が武士または侍のことであり、「更ニ」(それに加えて)、「熨計付八百五十僕」すなわち「熨斗付刀をさした中間・小者等が850人いた」ということで、「僕」=奉公人と考えられる。「義元殿人數ハ五十僕」も「義元殿人數」に加え50人の奉公人がいたということだと思う。

 

なぜなら既に繰り返し書いたように、熨斗付刀は武家奉公人がさすものだから。なお北条氏政武田信玄の娘(黄梅院)の結婚についても「熨斗付」が記事中にあるが、こちらは単に記事を見ただけでは読み取るのは難しいが、やはりこれも奉公人がさす熨斗付刀のことだと考えるのが妥当だと思う。

 

(2)『武備軍要』(小幡勘兵衛景憲)

 右羽柴秀吉と御一戦の儀に付、猶以様子委細被仰出正義の事、井伊兵部少輔に被仰下十一ヶ条の事

(中略)

第六、熨斗付の刀脇指、大小共に三百十腰支度仕る。此内二百十腰請取て、小身の者共或は歩の忰者、中間小者に至(る)まで手柄、走廻る者甲州信州に多き家風、信玄の仕入らる。縦へば小身者には金子十枚くれ候へ。諸人雑兵迄に不見渡、依(て)其者脇指一つ刀一つ、扨は刀脇指共に為取有之。如斯見ては下々勇顧忠節、此故に信玄は千腰に及て拵へ、御褒美の長持と号して、着物袷羽織迄長持に入如斯。我は二千腰支度可仕申付候へども、未出来是信玄の謀〇心の奇兵と作法被立、必(ず)是を不可忘。

(後略)

(『甲州流兵法 : 信玄流兵法』 石岡久夫編 1969)(レ点等略)

小牧・長久手の戦いの時に徳川家康井伊直政に語ったとされるもの。難解な部分もあるが、家康は熨斗付の刀脇指を大小310腰用意した、その内210腰を「小身の者共」「歩の忰者」「中間・小者」に手柄(褒美)として与えたという意味だと思われる。「歩の忰者」の「忰者」は「悴者(かせもの)」で若党・殿原のことだと思われる。これを見ると家康は「中間・小者」だけではなく、「小身の者共」にも熨斗付刀を与えたと思われ、また若党・殿原にも与えている(もちろん小牧・長久手の戦いだから本能寺の変より後)。ただし、次に武田信玄の話があり、「小身者には金子十枚」を与えたのに対し、「諸人雑兵には(熨斗付の)刀脇指を与えた」という意味だと思われる。

 

この違い(小身者に与えるか否か)が人や地域による違いなのか、時代による違いなのかはわからない。ただ少なくとも「熨斗付」は武家奉公人の中間・小者にも与えられることは間違いなく、それが与えられたから「侍」だとは決してならないことはこれでもわかる。しかも「刀脇指」「大小」とあるので、短刀だとか、短刀ではないとかは「侍」身分か否かの判断材料にはならないとも言えよう。

 

(3)『信玄全集末書』

九 武者奉行貳人は、御馬の少先、左右を乘、當番は右にのりて備の跡先をしきれさる樣に、專下知をなす、非番は左を乘て、敵ちか付は、物見に出てはたらくへき樣子を見計、專下知肝要なり、其次に歩の廿人衆、百貳拾人、御馬の前に、此頭二騎、是は御橫目也、旗奉行鑓奉行、武者奉行と交り、御中間頭貳騎、是は目付也、御中間頭八騎、二十人衆頭八騎は、御褒美の長持新衆に持せ、押なり、此御長持には、熨斗付の刀、脇指、大小共に、千余腰、小袖羽織、何角色々入なり、是も二人つゝ番に替り、廿人衆も一日一夜つゝ、番替也

上の『武備軍要』にも書いてあるが武田信玄「御褒美の長持」というものを用意しており、この長持には「熨斗付の刀、脇指、大小共に、千余腰」が入っていたという。

 

(4)『甲陽軍鑑

一、 信玄公於テ御陣ニ、手柄をなす者に褒美なさるゝその色々は

 一、御証文(文章に)上中下有。一、のし付の刀脇指。一、鑓長刀。一、のどわ。一、小袖。一、羽織。一、碁石金。一、づきんまで、

長持に一ツもたせ給ふなり。功により、又は時のしほにより、是を下さるゝ事、御使いにて給り、又は家老衆をもつて給り、或は二十人衆之頭、御中問頭衆をもつても給る。さて又御前へ召寄られ給るもあり。其様子(口伝)あり。

(『戦国史料叢書 第5』人物往来社 1966)(レ点等略)

「のし付の刀脇指」を誰に与えるのか、これだけでは不明。ただ「御中問頭衆(御中間頭衆)」とあるので、中間にも与えられたと考えられる。ここにも「長持」に入れていたことが記されている。

 

(5)『甲陽軍鑑

又、其十日の間に、伊豆いたづまにおひて、北条家のはが伯耆・かさ原、両侍大将と、信玄家の侍大将山形、一手にて合戦の時、くび四百卅、甲州方へうつとる、北条家の家老こと々くはいぐんなり、其節、辻弥兵衛・和田賀介、鑓をあわする、鑓下の高名、川手豊左右問・長坂宮内左右衛問、其八日めに信玄公、伊豆にら山へ取リつめ、あたりの在郷ほうくわのとき、にら山城のおさへに山形三郎平衛罷有ル城より、備をいだしてせめあひあり、此節山形衆、余リにきおいかゝつておしこむ故、引取ル事なりかぬる、敵出てくいとむる時、三川牢人にかわら村伝兵衛、白キ四方に船のせんの字を黒ク書キてさし物にして、かやして鑓をあわせ、敵をおしちらし、のくほどに、六度まで鑓をあわする、「かの伝兵衛がふるまひは、信玄家にてもあまり多クあるまじい」とて、信玄公のたまふハ、「賞功不踰時ヲ」とありて、則伝兵衛をめしいだされ、御さかづきをたまハり、のしつけの御し物くだされて後、とういのはうびとして、ごいし金を、信玄公のぢしん両の手にてすくい被成、三すくひ彼かわら村伝兵衛に被下、かやうのはたらき、他所にてハ、高天神小笠原与八郎内の林平六と申ス武士、遠州づだいじと云所にて、日のうちに六度の鑓をあわすると、此かわら村と、近代にはなはだ以のはたらきなり、

河原村伝兵衛 - Wikipedia

 

河原村伝兵衛は「山県同心」と呼ばれる山県昌景配下の人物。ただし、見ての通り「三川牢人にかわら村伝兵衛」とある。知識不足で「山県同心」がどういうものなのか良くわからないが、「牢人」すなわち「主人を持たない武士」であるから、語義的には「侍」ではないと思われる。信玄も「かの伝兵衛がふるまひは、信玄家にてもあまり多クあるまじい」すなわち武田家臣とはみなされてない。河原村伝兵衛が「のしつけの御し物」を褒美として下されたのは、伝兵衛が牢人であることと関係あるのかは不明だが気にはなる。