武田信玄の官途


武田信玄の官途の意味以前に、俺は信玄が「信虎の左京大夫を晴信が継承し、後に左京大夫を捨て大膳大夫に名乗る」という話を全く知らなかったのであった。というわけで調べてみた。けれど俺が持ってる武田信玄関係の資料にそういう話は見つからない。ネットのみの情報。しかもほぼ桐野作人氏の「膏肓記」から。
膏肓記 武田晴信の偏諱・叙爵・官途
膏肓記 武田勝頼の官途


甲陽軍鑑』には、

駿河今川義元公御肝入にて、勝千世殿十六歳の三月吉日に御元服ありて、信濃守・大膳大夫晴信と、忝も禁中より勅使として転法輪三条殿甲府へ下向し給ふ

とあり、ウィキペディアの「武田信玄」にも

天文5年(1536年)に元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改める[6]官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。

とある。『史伝 武田信玄』(小和田哲男 2001年)にも

元服のとき、晴信は朝廷から従五位下・大膳大夫兼信濃守に叙任された。

とある。


一方、『戦国大名辞典』(『国別守護・戦国大名事典』〈1998〉のことか)に柴辻俊六氏が

天文五年の元服のときは左京大夫、同十年六月、父信虎を追放して家督を継いだとき、従四位下大膳大夫に叙任した

書いているらしいが、その典拠は示してないらしい。しかも『信玄の戦略』〈2006〉では

天文五年の元服のときに従五位下大膳大夫に任ぜられた

と書いてあるらしい。「膏肓記」のコメント欄に『為和集』に左京大夫の記述があるとの情報。それは未確認。しかし検索すると「武田左京大夫晴信歌会始」(天文11年)という情報(『武士はなぜ歌を詠むか: 鎌倉将軍から戦国大名まで』)がヒットする。


信玄が信虎を追放したのが天文10年だから、それ以降にも「左京大夫」だったことがわかる。さらに天文16年までは確認できるっぽい。桐野氏は、永禄初(1558)年に大膳大夫が確認される(さらに遡れると思う)と書いているので、天文16(1547)から永禄1(1558)年の間に左京大夫から大膳大夫になった可能性が高いと思われる。


だとすれば信虎追放から6年以上は左京大夫だったと考えられ、信虎追放とどれほど関係があるのかはもっと考える余地があると思われ


なお桐野氏は信虎が「天文六年(1537)から陸奥守と受領名を名乗っている」ということから、信玄が元服したときに「左京大夫」を譲ったのではないかと推測している。これは説得力があると思う。


※ ちなみに信玄嫡男義信の元服が天文19(1550)年義信の官途って何だろう?義信に左京大夫を譲ったということはないんだろうか?


すると武田勝頼の大膳大夫についても一考の余地があるように思われ。


「膏肓記」によれば、武田勝頼左京大夫と大膳大夫の二種類を称していたことがわかる史料があうそうで、すると、


丸島和洋氏はおっしゃっているけれども、「膏肓記」によれば当の丸島氏が

天正七年(1579)末に、勝頼の嫡男太郎信勝が元服したのに伴い、勝頼は家督を信勝に譲って隠居した可能性が高いと、まことに興味深い指摘をしている。

とのことで(これも初耳)、それを上にあてはめれば、勝頼が当初は左京大夫を称しており、天正7年に信勝が元服したことにより左京大夫を信勝に譲り、大膳大夫になったという可能性があるように思われ、桐野氏もそう考えている。


ただし桐野氏は勝頼が隠居したという丸島説によっているけれども、信虎が元服した信玄に左京大夫を譲ったのだとしたら、勝頼も「隠居」したとは限らないのではないかと、「隠居説」には他にも状況証拠があるのかもしれないけれども思ったりする。


※ それにしてもこういったとても興味深い話を知るためには、武田氏関係の書籍を片っ端からチェックしてないと、なかなかこちらには届かないように思われ、特に「武田氏研究」などはうちの図書館には置いてないし(買えばいいって話かもしれないが…)


(追記12/13)
武田信虎のすべて』(2007)所収「武田信虎外交政策丸島和洋)」に

このとき晴信が任ぜられた官途は、左京大夫であった(柴辻俊六『武田信玄-その生涯と領国経営-』文献出版)。晴信の官途として著名な大膳大夫の初見は、天文十一年までくだる。天文八年から九年にかけて、甲斐を訪れた冷泉為和は、晴信を左京大夫と呼んでいる(『為和集』)。

とあった。『武田信玄-その生涯と領国経営-』は1987年。我が県の図書館には無かった。大膳大夫の初見が天文11年とのこと。出典は不明。『為和集』はネットに公開されており、天文11年9月9日にも左京大夫が確認できる。
為和卿集


なお桐野氏は

信濃守と大膳大夫を同時に名乗るということはふつうありえない

と書いている。『甲陽軍鑑』以外に兼官していたとする史料はあるのだろうか?