北条氏康書状について(その3)

氏康文書について徹底的に検証しようと思ったんだけれども、かなり初歩的なところで躓いてしまった。


北条氏康とは何者なのか?


織田信秀についてはまあわかる。尾張国の守護は斯波氏で、尾張の上四郡は岩倉織田氏(伊勢守家、下四郡は清洲織田氏(大和守家)が支配する。尾張国守護代清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行の一つ、弾正忠家の当主が織田信秀。官位は従五位下。官職は三河守(と言われるが疑問あり)。


一方、北条氏康について実のところ俺は詳しくない。ウィキペディアによれば「相模の戦国大名」。「官位 従五位上、相模守、左京大夫」とある。


しかしこれだけじゃ織田信秀北条氏康の地位の比較ができない。すなわち、北条氏康にとって対等な立場となるのは、守護斯波氏なのか、守護代織田大和守家なのか、清洲三奉行の1人の織田信秀なのか?ということがわからない。


官位を見れば氏康の方がワンランク上ではある(なお従五位上は天文11年に叙位されたらしい)。だから氏康の方が上位なのは確かだろう。ただ、信秀が尾張国守護の下の守護代の下の奉行の1人に過ぎないのに対して、相模国は守護・守護代に相当する者がいない(と思う。詳しくない)。実質的な国主といえるだろうから、信秀よりは圧倒的に上位だとも言える。でも信秀は守護代の奉行という公的な立場にいるけれど、氏康はそういった公的な立場がなくてただの実力者だと言えるかもしれない(よくわからないんだけど)。


そこんとこどうなってるんだろう?


しかし、常識的に考えれば、氏康と今川氏や武田氏との関係では、今川義元武田信玄を対等な立場とみなしていただろう(いやこれも詳しく知らないんだけど)から、尾張国でそれに相当するのは尾張には守護がいるのだからして斯波氏ということになり、信秀はその家来としての立場で氏康に使者を派遣したということになるのではないだろうか?


とはいえ信秀が尾張の実力者でなおかつ三河の一部を支配しているということは氏康も認識しているはずで、形式上の地位とは別にそれも重んじなければならないだろう。


そういった事情があったから、天文17年3月11日付の信秀宛書状は2種類あるということになっているのではないだろうか?