信長の父「三河を支配」

信長の父「三河を支配」中京大教授が新説 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたことが、村岡幹生・中京大教授(日本中世史)の研究で分かった。今春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。

 「岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」などと記されている。「弾正忠(だんじょうのちゅう)」とは、当時の官職の名称で、織田家は信長まで3代にわたってこの職を名乗っていた。村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、弾正忠とは信秀、「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。

ナ ナンダッテー!!


するとこの文書の解釈はどうなるんだろうか?

如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、

十七年

三月十一日

氏康 在判

織田弾正忠殿

御返報

北条氏康、織田弾正忠の軍功を確認し今川氏との関係を伝える | 歴探


(史料が残っているといっても現地情報じゃないから誤報の可能性もあるし)


それはおいおい考えるとして

 通説では、同年、竹千代の護送役の田原城(現在の愛知県田原市)城主、戸田康光が裏切って信秀に竹千代を売り飛ばしたとされている。しかし、これまで、戸田がなぜ裏切ったのか謎とされてきた。

 村岡教授は「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」と指摘。通説については「天下人となった家康が父親を神格化するため、誘拐されたことにしたのかもしれない」と推測する。

とうのは陰謀論くさい。この新説が正しかったとしてもそこは変えなくても良いのでは?