2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧
豊臣秀吉の母の生年は不明だけれど、ウィキペディアによれば永正10年(1513年)または永正13年(1516年)としている。 ⇒大政所 - Wikipedia 秀吉の生年は天文5年(1536年)説と天文6年(1537年)説がある。 ⇒豊臣秀吉 - Wikipedia 秀吉の姉の瑞龍院日秀は天…
秀吉の姉「日秀」について ⇒善正寺(わたしの青秀庵) より。 文禄5年(1596)のはじめ、武家社会の非情さ、儚さを実感したとも(智)は、秀次の菩提を弔うため密かに嵯峨野に庵を設け近くの二尊院の僧に供養をお願いした。この小さな庵が善正寺の始まりという…
「村雲御所(その2)」の続き。 秀吉・日秀の祖父、萩中納言(持萩中納言)は尾張の「村雲」に配流された。一方、豊臣秀次を追善するために日秀が建立した瑞龍院は京都の「村雲」にある。 ところで、ここにもう一つの「村雲」がある。兵庫県篠山市の村雲だ。…
「報恩抄」に「太陽を射る話」が出てくる。 (意訳) 慈覚大師(円仁)は太陽を射る夢を見たという。弘法大師は弘仁9年の春に大厄の祈祷をしたら夜中に太陽が出現したという。しかし夜中に太陽が出現するなど昔からあったことがない。慈覚大師は夢で太陽を射…
「村雲御所」の続き。 豊臣秀吉の姉の日秀は京都と名古屋の二つの「村雲」と関係がある。これをどう解釈したら良いのだろう? 『真書太閤記』は後世に書かれた俗書であり、ましてや持萩中納言など実在しないのであり、全く信用できないという考え方もあるだ…
豊臣秀吉の姉で、秀次の母である瑞龍院日秀。 諱はとも、位記上の本名は智子(ともこ)。通称に村雲尼(そんうんに)、日秀尼(にっしゅうに)。院号は瑞龍院(ずいりゅういん)。 ⇒日秀 - Wikipedia 智(とも)は子供のない弟・秀吉に長男の秀次を養子とし…
2年前に書いた「木下氏」の続き。 木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻ねねの母方の姓とする説もある[1]。 ⇒豊臣秀吉 - Wikipedia この問題はとても深刻な問題で、俺から見れば、あの「ゴッドハンド」事件よりもひどいと思う(あっちは騙さ…
⇒「桃太郎の鬼の立場で」「北方領土はどこの国?」日教組教研集会、とんでも教育の報告相次ぐ+(1/2ページ) - MSN産経ニュース 太平洋戦争の際には桃太郎は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は「鬼畜米英」とい…
「織田信長がゲイだという根拠ってあるの?」の続き。 この頃、信長とは衆道(同性愛)の関係にあったことが加賀藩の資料『亜相公御夜話』に、「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残さ…
秀吉皇胤説を疑え(その5)の続き。 滝沢馬琴の『曲亭雑記』から。 豊臣ノ秀吉公の平清盛に似なるにや。一書に太閤秀吉の父測(しれ)ずといふハ。はじめ馬島明眼院といへる者あり。天子の御目病を療治しまゐらせしかば。叡感の余宮女を明眼に賜りける。此宮…
⇒痛いニュース(ノ∀`) : 毎日記者「ここの店、うまいの?」 若者「普通においしいですよ」 記者(普通にって何だ…?) - ライブドアブログ 「普通においしい」っていうのは、たとえば評論家の評判がすごく良い料理や食材があって、だけど自分が食べてみるとさ…
秀吉皇胤説を疑え(その4)の続き。 次に江戸時代に書かれた『塩尻』。近代デジタルライブラリーから。 秀吉(始は高吉)尾州萱津横笛山光明寺支院福阿弥子也。伝云福好医術能治眼疾。一旦勅治御疾。上賞之将使福有嗣子伝医術乃賜官女。於是還俗移居中村郷。…
秀吉皇胤説を疑え(その3)の続き。 ところで、ここで不審なのが「関白任官記」であろうと『戴恩記』であろうと、豊臣秀吉は母の最初の子としか思えないこと。 ところが秀吉には姉がいるはずだ。 ⇒日秀 - Wikipedia 『戴恩記』に「吾々」とあるので「もしか…
秀吉皇胤説を疑え(その2)の続き。 豊臣秀吉自身が関与した秀吉の出自と考えられるものには、『関白任官記』と『戴恩記』の他に、『善隣国宝記』にある天正十八年の「朝鮮国王に与る書」がある。 「予托胎の時に当り慈母、日輪の懐中に入るを夢む。相士の曰…
「疑え」といったって、豊臣秀吉が本当は天皇の子ではないという意味ではない。秀吉が自身を天皇の子と主張したという説を疑うべきだということ。 そのことについては既に書いたが、さらに考察してみる。 ⇒幻想の「秀吉ご落胤説」 ⇒幻想の「秀吉ご落胤説」(…
豊臣秀吉は自身を「日輪の子」だと主張していた。 これをもって秀吉をバカにするような言説をなす人というのは多い。その背景には非科学的なものに対する嫌悪感があるのかもしれない。 ところが、上杉謙信が毘沙門天の生まれ変わりだとか、伊達政宗が萬海上…
秀吉皇胤説を疑え(その1)の続き。 豊臣秀吉は本当に天皇の落胤だと主張したのか。 次に前にも書いたけれど松永貞徳の『戴恩記』から。 ある時秀吉公いつも御参内の時。御装束めしかへらるゝ御やど施薬院にて曰く。我、尾州の民間より出たれば。草かるすべ…
図書館で山路愛山『豊臣秀吉』を見てたら、秀吉野合の子説が紹介されてた。 出典は『曲亭雑記』の「平豊小説弁」なので、近代デジタルライブラリーから書き起こし(ちなみに山路愛山の『豊太閤』も近代デジタルライブラリーにあった)。 或記に云。太閤秀吉…
去年の年末に「JIN-仁-」の再放送をやっていた。俺は初見だったんだけど面白かった。 ところで、ドラマの中に浜口儀兵衛が登場する。2ちゃんねるの実況見てたらヤマサ!ヤマサ!の大合唱だったよ。 ⇒濱口梧陵 - Wikipedia さて、浜口儀兵衛といえば「稲むら…
迹見首赤檮(補足その5)の続き。 太陽を射って不幸になった話。 ⇒もぐらと太陽(岡山の民話) ⇒荒坂長者(Google 検索) あと「武乙」 ⇒武乙 - Wikipedia また、その傍ら天に向かって矢を放つということもした。最期は、武乙は黄河と渭水の間の土地で狩猟を…
迹見首赤檮(補足その4)の続き。日を招いても没落しない話 小野地健氏は日を招いても没落しない原因を王権との関係で論じているけれど、俺はそれに同意できない。 というのも、「日招き長者」の長者はただの富裕な農民ではないと思うからだ。 確かに今に伝…
迹見首赤檮(補足その3)の続き。 日を招いても没落しない話 「日招き長者伝説」は長者が没落する話なのだが、例外として没落しない話がある。 『日本民俗大系 太陽と月』(小学館)では、 愛媛県伊予郡保免町の日招き八幡、宮城県桃生郡桃生町の日招ぎ橋、…
迹見首赤檮(補足その2)の続き 捕鳥部万の死体を朝廷は八つ裂きにして八カ国に曝せと命じた。 ところで、江戸時代に書かれた『広益俗説弁』に「垂仁天皇御宇八つの日出しを射落さしめ給ふ説」という記事がある。 俗説云、垂仁天皇の御宇に九つの日輪出でし…
迹見首赤檮(補足その1)の続き 捕鳥部万について。 捕鳥部万と聞いても「誰?」って話。ウィキペディアの説明も短い。 ⇒捕鳥部万 - Wikipedia しかし、「守屋合戦」で物部守屋が迹見首赤檮に射ち落とされた後の、捕鳥部万の記事はむちゃくちゃ長い。 物部守…
迹見首赤檮(まとめ)の続き。 実はまだ続くんだ。これまでは俺がまず間違いないと考えていることであって、ここからはそこまで自信はないけれど、そうなのではないかという俺の推理。 迹見首赤檮が物部守屋を射落としたという伝説は「太陽を射る話」であり…
迹見首赤檮(その8)の続き。 物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)の伝説は「太陽を射る話」に源流がある。「太陽を射る話」の類話である「日招き長者伝説」は長者が没落する話であり、「太陽を射る話」もまた射手もしくは命令者…
迹見首赤檮(その7)の続き。 物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)の伝説は「太陽を射る話」に源流がある。 日本神話には他に「太陽を射る話」は無いだろうか?そのものずばりは無いけれど、もしかしたら類話ではないかと思うもの…
迹見首赤檮(その6)の続き。物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)の伝説は「太陽を射る話」に源流があり、「太陽を射る話」は「日招き伝説」と類似した話である。「日招き伝説」の長者は没落する。話の中に没落したと明言されてな…
迹見首赤檮(その5)の続き。物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)の伝説は「太陽を射る話」に源流があり、「太陽を射る話」は「日招き伝説」と類似した話である。 「日招き伝説」は栄華を誇った朝日長者が最後には没落する。 とこ…
迹見首赤檮(その4)の続き。 物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)の伝説は「太陽を射る話」に源流がある。 ところで、「太陽を射る話」の類話に「朝日長者伝説」がある。 「朝日長者伝説」とは、 たとえば鳥取県気高郡の湖山長者…