木下氏(その2)

2年前に書いた「木下氏」の続き。

木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻ねねの母方の姓とする説もある[1]。

豊臣秀吉 - Wikipedia


この問題はとても深刻な問題で、俺から見れば、あの「ゴッドハンド」事件よりもひどいと思う(あっちは騙されたという要素があるんだから)。


「木下」が「妻ねねの母方の姓」という説は多くの歴史関係の本で紹介されている。ネットでも多く紹介されていて、それが有力な説だと思っている人も多い。


ところが、肝心要の「どうして木下が妻ねねの母方の姓だと考えられるのか」ということを説明したものは非常に少ない。俺は昔図書館で秀吉関連の本を片っ端から調べたんだけれど、驚くべきことに根拠が示してあるものは一つもなかった。『織田信長家臣人名辞典』に根拠はこれではないかと思われることが書いてあったけれど、「妻ねねの母方の姓」説として書かれているものではなかったので確信は持てなかった。


困り果てた俺は2ちゃんねるの日本史板で聞いてみた。

533 :日本@名無史さん :04/08/11 13:09
杉原氏が前から木下を名乗っていたってソースはあるのでしょうかね。
俺はさんざん探したけど、見つからなかったんだけどな。

■★秀頼は本当に秀吉の子供だったのか?★■


すると以下のレスが返ってきた。

534 :日本@名無史さん :04/08/11 14:46
確証はないんですが、織田信長の奉行衆の一人木下 祐久(すけひさ)は杉原定利と同一人物らしいです。
これはNHKで秀吉の木下氏についてやってた時、仮説の一つとして紹介されてましたが、
杉原定利後に入道道松として親しまれた逸話で、道松が家柄をたずねられた時「木の下の者」と答えたそうです。
「木の下の者」とは「木の下を家とする人」つまり家に縛られないという意味だそうです。
その番組では秀吉の木下氏は杉原定利のこのエピソードからヒントを得たものではないか、
という仮説を紹介してました。

というわけで、どうやら「木下祐久=杉原定利」が「妻ねねの母方の姓」説の根拠であるらしい(なお、今に至るもこれ以上の情報を得ることができない)。


ところが、先に書いた『織田信長家臣人名辞典』(谷口克広 吉川弘文館)「木下祐久」では、

果して彼が、一部で言われている通り、豊臣秀吉正室於禰(高台院)の父なのであろうか。

とこれを疑問視している。

祐久には、「定利」という別名も、「道松」という別号もみられない。

という。しかも木下祐久は長久手の戦い(1584)で討死したとされているのに、杉原定利には1593年に死去したという記録がある。同一人物ではない根拠があるというのに、それを同一人物だとするには、谷口氏が主張するように「もっと明確な証が必要」なはずだ。


しかし、この説は一体いつ誰が唱えたものだろうか?谷口氏でさえ「一部で言われている通り」と書くのみで、それについては言及していない。これは「言い伝え」なのか「学者が唱えたもの」なのかさえわからない。


つまり、どこの誰が唱えたかもわからない(少なくとも多くの本で説明されていない)、しかも問題がいっぱいある説を、さらに、その根拠さえ示さずに「妻ねねの母方の姓という説がある」という形で一般読者に示されているということになるだろう。


これは一昔前にネットで流行した「ソースロンダリング」という言葉がぴったり当てはまりそうな話だ。


※もちろん「妻ねねの母方の姓という説」の根拠が別にある可能性はある。しかし、とにかく根拠の説明もなしにそういうことが垂れ流されているというのは、それだけで大問題だと思うのである。