秀吉皇胤説を疑え (その6)

秀吉皇胤説を疑え(その5)の続き。


滝沢馬琴の『曲亭雑記』から。

豊臣ノ秀吉公の平清盛に似なるにや。一書に太閤秀吉の父測(しれ)ずといふハ。はじめ馬島明眼院といへる者あり。天子の御目病を療治しまゐらせしかば。叡感の余宮女を明眼に賜りける。此宮女天子の幸を受て懐胎なり。是ハ後奈良帝の御宇の時の事にて。明眼てふ名も後に賜りし名にや。始より宮女有身(みこもり)の事も知れざりしにぞ。しかるに明眼ハ倫戒を保て。一向に妻を納(いれ)ず。この宮女を尾州中村の住人筑阿弥に与へけり。遂に筑阿弥許にて出生せしハ即秀吉也。一説に筑阿弥はじめ中村弥助昌吉と号す。故に世に王氏のやうにいひなせるもあり。又俗説に筑阿弥か妻。日輪懐に入と夢みて孕み。誕生ありし故。童名を日吉丸と号すなどあるも。天子の御種を宿せしをいひなせるにや。太閤記などいふ草子にハ、其母ハ持萩中納言保廉卿の女也。天文丙申正月元日誕生と記せり。一説にハ信長の足軽木下弥助といふ者の子也とあり。然れども秀吉の信長に仕へし次第を見るに。木下弥助が子ならば。初より信長に仕ふべき事なり。又筑阿弥の秀吉に於る。我が子のあしらひとも見えず僧にもなさんとせし程に。秀吉父の所を逐電せられし事あり。且又秀吉一天下を掌握せられての後。親の廟所とて中村にもなく。又墓所もしれず。秀吉の父慥ならば。きと位牌なども取建らるべきに其事も聞えず。何れにも筑阿弥ハ本生の父にあらざるを。己も知りたまひしなるべし。下略。


これは正真正銘の「皇胤説」だ。ここでやっと皇胤説が登場することになる。


話としては先の『塩尻』に近い。ただし『塩尻』では「光明寺支院福阿弥」とあるのが、ここでは「馬島明眼院」となっている。また『塩尻』では「福阿弥」が「弥助」と称したのに対して、ここでは「馬島明眼院」と「宮女」の間に性的関係はなく「筑阿弥(弥助)」にそのまま与えたとするなど肝心の部分で異なっている。また「天子」が後奈良天皇であり、天皇の子だと明言している。


ちなみに「馬島明眼院」とは、

その名声は朝廷にも伝わり、やがて永正15年(1518年)には朝廷の依頼を受けて、薬師寺の僧侶が後柏原天皇の眼病を治療する。次いで寛永9年(1632年)に当時の13代目住持円慶が後水尾天皇の皇女の眼病の治療にあたったことから、天皇の賞賛を受けて「明眼院」の寺号を授けられて勅願寺の格式が与えられた。その頃、明眼院に治療に訪れたキリシタンが幕府や尾張藩の迫害を逃れていわゆる「キリシタン灯籠」を寄贈した。円慶らはその真意を悟ったものの、困窮するものを見捨てられないとして密かに安置することを許してこの事は明治維新まで寺の極秘とされていた。後に住持円海が桜町天皇の皇女の治療にあたったことから、明眼院の住持を権大僧正に任じた。

明眼院 - Wikipedia


要するに、『塩尻』の「福阿弥」を、当時眼病治療で有名だった「馬島明眼院」に置き換えたものだろう。もちろん『塩尻』の「福阿弥」が「馬島明眼院」のイメージから来たとも考えられるけれど。


それと「一書」が何なのかもわからないが、これは俺がわからないだけかもしれない。



俺が思うに「秀吉皇胤説」なるものは、馬琴が語っているようなものがベースになっていて、それに囚われて、そこから遡った秀吉時代にも皇胤説があったかのように考えているんじゃなかろうか?もしそうならば、後から出来たもので、それより前の時代を評価するという誤った思考法である。もちろん、後の時代の情報にも、同時代史料を補う情報が入っている可能性はあるかもしれないけれど、余程慎重に扱われなければならない。


秀吉が皇胤説を唱えていたという説を学者がいつから主張しているのか俺は知らない。小和田哲男氏が最初だというわけではない。桑田忠親の『豊臣秀吉』(角川書店 昭和59年)に、

秀吉は、さらに、御伽の者大村由己に命じて、『関白任官記』と題する読み本を書かせ、暗に、かれが天皇の御落胤であるといわんばかりのピー・アールをさせている。

とある。桑田博士は大学者だとは思うけれど、この手のことになると多くのインテリ学者にみられることだが、茶化した物言いをするところがある。非合理的・非理性的と見做した事柄になると、それを批評する側もまた同類になってしまうというのはよくある光景だ。


最近では藤田達生氏が『秀吉神話をくつがえす』で、やはり秀吉が皇胤説を唱えたと言っているらしい(俺は読んでいないけれど)。


こういうのが未だに大手を振って流通しているのは日本の歴史学の大きな問題点だと俺は思いますね。