2016-10-01から1ヶ月間の記事一覧

明智光秀の妻の病気と死

人物叢書新装版『明智光秀』(高柳光寿 昭和61年第一刷)に 『兼見卿記』の天正四年十月十四日の条に、惟日女房衆、すなわち光秀の妻が病気になったので平癒の祈祷を兼見のところへ依頼して来ている。 「十月十四日」とあるけれど、『兼見卿記』には 十日、(…

そもそも「女房衆」とはどういう意味なのか?

(注 最下部に追記あり) いや、すごい基本的なことで「今さら人に聞けない○○」みたいな感じなんだろうけれど、わからないものはわからないので書いとく。 この際「女房」とは何かということは置いとく。完全に理解できてるか自信はないけど、それを説明して…

『兼見卿記』と明智光秀の病気(とカオス)

光秀と関係のある女性「妻木」は『兼見卿記』にも登場するという。図書館で確認せねば、でもこの前行ったばかりだからしばらく行けないなと思ってたら、そういえば昔コピーしたのがあったかもしれないと思って探したらあった。天正7年4月と9月、および天正8…

史料の口語訳

少し前に紹介した記事。 ⇒真田幸村物の「定本」決定版。歴史の信繁、文学の幸村(前編) 『真田幸村』 (小林計一郎 著)|解説 は『真田幸村』(小林計一郎)の書評だが、ここに注目すべきことが書いてある。 2の口語訳は、読者にとっては至極有り難いので…

粽と5月2日

『妙法院日次記』 第144巻 天明8(1788)年5月2日に 一、智積院権僧正より使僧を以、端午為御祝儀如例年白粽一折(拾把)献上也、 一、恵宅師江時効為御尋、白粽五把被遣之、 とある。 ※ ただし、これしかネットでは見つからない。時代も天正7年から200年ほ…

明智光秀とチマキとツマキ(その3)

再び桐野作人氏の2007/03/15付の記事「膏肓記 拙著本日から発売!」のコメント欄の桐野氏のコメント。 ここに「ツマキ」が登場します。 言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をしたときに、その流れで二条御新造にいる女房衆にも挨拶したというのは十分ありえま…

上杉謙信と天下

英雄たちの選択「関東から天下へ!〜上杉謙信の夢と野望〜」 - NHK 無欲で「義」の武将のイメージ・上杉謙信。しかし最新の研究からは、古い秩序が崩壊していく戦国乱世のなか、謙信が、天下をまとめ上げる構想を持っていたことが浮かび上がってくる。 最近…

明智光秀とチマキとツマキ(その2)

今までずっと気になってはいたけれど記事に書かなかったことを記事にしてみると新しい発見がある。 『言経卿記』に「ツマキ」が登場するという。このことは前から知っていたような、いないような。Tmさんがあちこちでコメント書いているので、どこかで見た…

明智光秀とチマキとツマキ

明智光秀と粽のエピソード。『閑際筆記』(国文研)から読み取った(誤字等あるかも)。 日州光秀既ニ織田公ヲ弑メ。桃花坊ニ在ス。洛人献粽ヲ。光秀菰葉ヲ不脱シテ啖之。一ノ人望見之曰。斯人大君ノ器ナシ。何ヲ以テ天ノ下を有也(タモタンヤト)。不日ニシ…

「加志の和都賀野」考(その5)

「加志の和都賀野」を記す「風土記逸文」は中世の神道書の影響を受けている。しかし「風土記逸文」がさらに他に影響を与えた形跡は見当たらず、行き止まりになっていると思われる。おそらく書かれている内容の独自の部分は伊賀に伝わる伝承などでは全くなく…

「加志の和都賀野」考(その4)

ツイッターにて『標註伊賀名所記』という史料を知る。 『伊賀名所記』とは能登永閑という戦国時代の連歌師が書いたものとされ、それを天保14(1843)年に入交省斎という人物が標柱を加えたものらしい。Google Booksで読むことができるけれども、俺の能力では…

「加志の和都賀野」考(その3)

「阿我山」で検索して見つけた記事 ⇒伊賀市上神戸我山 単立 戸世山 蓮明寺 千古の容姿を留める背景は、御殿山と称し、我山の地名は和歌山、阿我山ともいわれ日本略記永閑記等に記され、日本歴史に名高い壬申の乱の舞台となった処で天武天皇浄見原御所跡等が…

「加志の和都賀野」考(その2)

「伊賀国風土記逸文注釈稿」(平松秀樹)という論文に解説が載っているが、これを見ると「加志の和都賀野」という地名が載っている風土記逸文は十中八九鎌倉中期以降のものであろう。 伊賀の國の風土記。伊賀の郡。猿田彦の藭、始め此の國を伊勢の加佐波夜(…

「加志の和都賀野」考

⇒「古代の神話は創られた!?」もののけ姫と花粉分析(カシ→松)から読み解く『伊賀国風土記』(鎌倉時代成立)の謎! を見て、「加志の和都賀野」とは何かと考えて15分程で思いついたこと。この件についてろくに知識もない検証もしてない本当の思いつき。 …

「幸村と云は誤なり」と水戸光圀が書いたと云は誤なり

俗伝で幸村の佩刀であったとか介錯に村正を用いられたという話があり、すべて誤伝であるのだが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた[4]。このため国学者でもある徳川光圀がわざわざ「幸村というのはあやまり也」[4]と書き…

今年聞いた空耳ミュージックビデオ三選

1.関係なんてねえ Paranday (Full Video) | Bilal Saeed | Latest Punjabi Song 2016 | Speed Records/Envy presents 2.三ツ星商店 Kalash - Danjé (1分過ぎたあたりから何度か) 3.エロいな Carla's Dreams - Sub Pielea Mea | #eroina (Official Video) …

肥後国熊本様子聞書(その2)

そもそも「肥後国熊本様子聞書」とは何かというと https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=5566&sub_id=3&flid=55143 清正の死去後、熊本の様子を長州藩密偵が調査し、慶長16(1611)年7月10日に作成した「肥後国熊本様子聞書」…

肥後国熊本様子聞書

『新熊本市史史料編第三巻近世Ⅰ』より 肥後国熊本様子聞書 (慶長十六年)七月十日 一 今度肥後殿・大御所様御振舞之日、四月十三日ノ朝上京ニ而七人被遣候事、一 肥後殿(加藤清正)一 福嶋殿(福島正則)一 寺沢嶋守殿(広高)一 松平筑前殿(前田利常)一…