関ヶ原の戦い「問鉄砲」問題に関する重要事実(その3)

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フィクションとしての「問鉄砲」(パート1) : 家康神話創出の一事例(その2) 

フィクションとしての「問鉄砲」(パート2) : 家康神話創出の一事例(その2)

 

「問鉄砲」の逸話は、小早川秀秋が東軍に寝返る約束を反故にしたと家康が考えたという話。だが実際は小早川は家康に味方することに迷いは無くタイミングを見計らってた。だから家康が早合点話だということができる。

 

これが果たしていわゆる「家康神話」だと言えるだろうか?少なくとも「混戦の中にあっても常に冷静な判断をし」たとか、「家康は何でもお見通し」という話では無いと俺は思うがいかがだろうか?

 

もちろん、家康が早合点したにも関わらず関ヶ原合戦は東軍の勝利に終わった。「この程度の判断ミスは家康様にとっては大したことではないのだ。ミスであってもそれが良い効果に繋がり勝利してしまう家康様すごい」という話を創作したのだ。とこれを「家康神話」だとすることも可能だろう。

 

結局のところ、関ヶ原で勝利し後に天下を握ったのは家康なのだから、史実では無いとみられる話なら何だって「家康称賛のために創られた神話なのだ」とこじつけることは可能なのである。(実は家康は関ヶ原で戦死して以降は影武者だったとかいう話なら別だろうが)

 

それで良いのか?といえば全然良くないと俺は思うのだ。なぜなら他の可能性を探ろうとしなくなってしまうから。この話が家康称賛のために創られた神話で無いとするなら、では一体どこから来たのだろうか?それを考える必要があるだろう。

 

そういう視点でたとえば『落穂集』を読んでみる。

関ヶ原表へ御馬を進められ、既に御先手の諸手ハ合戦始り候時節まても筑前中納言家中の者共ハ、松尾山に取登り罷在候得共、諸勢しつまりかへり、裏切なと可仕躰ハ無之候に付、聊御不審に被思召候処へ、久保島孫兵衛御先手馳来り申上候ハ、筑前中納言兼ての申合を異変被致候様子に相見へ申候、いかヽ仕たる者にて可有御座と申上候を御聞候より、以の外御気色損し、扨ハせかれめにはかられたるよ、との仰にてしきりに御指を噛せられしか、其方罷越し秀秋か備へ罷在松尾山の上鉄砲を放しかけ見候様との仰に付、孫兵衛馳行候て、御先手のものかしら布施孫兵衛へ御意の段申渡候に付、布施は組の同心を召連、松尾山の麓へ近寄鉄砲を打掛候処に、御考の通り筑前勢夫より色めき立て勢を麓へ差下候となり

これがいわゆる「家康神話」では無いとしたら、浮かび上がってくる人物がいる。久保島孫兵衛と布施孫兵衛。特に久保島孫兵衛がこの逸話の中心人物ではないかと。

 

さて、この久保島孫兵衛という人物について、白峰旬氏は

久保島孫兵衛は実在の人物か?
 家康に対して、小早川秀秋の内応が疑わしい旨の報告をした人物を久保島孫兵衛とする史料は、『関原軍記大成』、『改正三河風土記』、『落穂集』、『天元実記』であり、『黒田家譜』は異説として掲げている。『徳川実紀』は「久留島孫兵衛某」としている(表1参照)。この中で史料の成立年が最も早いのは元禄元年の『黒田家譜』である。久保島孫兵衛について、『関原軍記大成』、『黒田家譜』は家康の御家人としている。

 上述のように、『朝野旧聞裒藁』(「東照宮御事蹟」第三百九十二)の綱文では、『寛永譜』(=『寛永諸家系図伝』)・『貞享書上』をはじめとして諸記録すべてに「久保島」という者の記載がないので(久保島孫兵衛の存在は)疑わしい、と考定して、そのため、今回はこれらの(諸史料)の見解にはすべて従わない、としている点は重要である。久保島孫兵衛については、『寛政重修諸家譜』にも記載がないので(久留島孫兵衛についても『寛政重修諸家譜』には記載がない)、江戸時代中期(元禄期頃)になって創作された架空の人物であると断定してよかろう。久保島孫兵衛がもし、実在の人物であるならば、このような重大な局面で重要な役割を果たしたわけであるから、家譜などの諸記録が残らないということはあり得ないであろう。

「江戸時代中期(元禄期頃)になって創作された架空の人物であると断定してよかろう。」としている。

 

ところが久保島孫兵衛は実在するのである。

 

これが関ヶ原の戦い「問鉄砲」問題に関する重要事実。

 

(つづく)

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