関ヶ原の戦い「問鉄砲」問題に関する重要事実(その2)

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重要事実を書く前にもう一つ気付いたことがある。大事なことなのでそれから。

 

白峰旬氏の論文『フィクションとしての「問鉄砲」』

BUILD Site - フィクションとしての「問鉄砲」(パート1) : 家康神話創出の一事例(その2)

BUILD Site - フィクションとしての「問鉄砲」(パート2) : 家康神話創出の一事例(その2)

 

『井伊家慶長記』という史料がある。(パート2) で白峰氏は

なお、『石田軍記』、『井伊家慶長記』を見るとわかるように、空砲であったためなのか、小早川秀秋の陣に対して「問鉄砲」の影響(効果)が全くなかった、としている点は注目される。

 

「問鉄砲」の効果が全くなかったとする史料は、『井伊家慶長記』(寛文12年写)、『関原 大條志』(66)(貞享3年写)、『関ヶ原合戦誌記』(貞享4年成立)、『黒田家譜』(元禄元年成 立)、『石田軍記』(元禄11年成立)、『濃州関原合戦聞書』(67) (成立年不明)である(表1参 照)

繰り返し『井伊家慶長記』においては「問鉄砲」の効果が全くなかったと書いている。

 

同論文によれば

上述のように、管見では、「問鉄砲」に関する記載が最初に出てくるのは、江戸時代前期の寛文12年写の『井伊家慶長記』である。

ということなのでこれは重要だ。

 

だが、ここに大きな問題がある。

そもそも「問鉄砲」の効果とは一体何か?

ということだ。それがわからなければ「効果」があったか無かったか判断がつかないではないか。それを白峰氏は該当部分に書いてない。ただし別の箇所に

家康の命により実行された「問鉄砲」が小早川秀秋の裏切りを誘発することに抜群の効果を発揮した、という話が広く後世まで認知され、今日まで定着することになった。

と書いてあるから、白峰氏は「問鉄砲の目的は小早川秀秋の裏切りを誘発すること」であり、秀秋が誘発されれば「効果があった」という意味で「効果」の意味を使っているのだろうと考えられる。

それに対して、「問鉄砲」の効果があったとする史料は、『本朝武林伝(稲葉)』(延宝7年成立)、『関原物語』(68)、(元禄9年写)、『落穂集』(享保13年成立)、『天元実記』(天保4年以前に成立)、『聿修録』(文政元年〔1818〕)、『改正三河風土記』(天保4年成立)、『徳川実紀』(天保14年成立)である(表1参照)。

この「効果」も同じ意味だろう。だが、前の記事で書いたように『落穂集』や『天元實記』における家康は『落穂集』に

以の外御気色損し、扨ハせかれめにはかられたるよ、との仰にてしきりに御指を噛せられしか、

とあるように、家康は小早川秀秋に計られた(裏切りを約束しておきながら反故にした)と既に考えている(かもしれないというレベルではないと思われる)のだ。計られたと考えている家康が「裏切りを誘発する」行動に出るのは不自然だ。(念のために)本当に図られたのか確かめようとした」と解釈するのが自然である。

 

そして『落穂集』ではそれに続くエピソードとして、小早川陣営では家康に味方することは確定事項であってタイミングを見計らっていたところ、家康側からの「問鉄砲」があったので松尾山を下ったという話になっている。つまり、結果としての小早川の行動は家康が意図したものとは(完全には)一致してないのだ。小早川側にとっては家康側からの発砲はタイミングの判断材料なのである。

 

それを踏まえて元に戻って『井伊家慶長記』の「問鉄砲」

 前掲の『井伊家慶長記』の記載内容は、福島正則藤堂高虎に合戦を始める時節について聞いたことに対して、高虎は手立てがある、と述べて自分の陣に帰り、高虎が麾下の鉄砲の者20人ばかりを連れて小早川秀秋の陣に向けて空砲を撃たせたが、小早川秀秋の陣は少しも騒がず、一向に敵陣を見おろすだけであった、というものである。この結果に対して、藤堂高虎は、小早川秀秋の心底は疑いない、と述べたとしている。

 この記載内容を見るとわかるように、藤堂高虎は自主的に麾下の者に鉄砲を撃たせたのであり、しかもそれは空砲であった、としている。そして、この空砲に対して小早川秀秋の陣では全く騒がず敵陣を見おろすだけであった、としている。つまり、藤堂高虎は家康の命を受けて鉄砲(空砲)を撃たせたのではないという点、藤堂高虎隊が単独で鉄砲(空砲)を撃ったとしている点、鉄砲(空砲)を撃たせた効果が全くなかったという点は注目される。

ここでは藤堂高虎が「問鉄砲」を命じ実行したことになっている。それに対し小早川陣営は「全く騒がず敵陣を見おろすだけであった」。だから「効果が全く無かった」と白峰氏は主張する。だが既に書いたように、それは「問鉄砲」の目的が「小早川秀秋の裏切りを誘発すること」にあるとする白峰氏の考えに基づいた場合のことだ。

 

しかし、『井伊家慶長記』においても「問鉄砲」の目的が「確かめるため」であれば、家康側の藤堂高虎から鉄砲を撃たれたにもかかわらず反撃しなかったことをもって「小早川は約束を違えていない」という結論を得られた。すなわち目的に対して結果が得られたという話として理解できるのである。

 

だとすれば、「問鉄砲」が書かれた初期の『井伊家慶長記』でも『落穂集』その他の史料においても、誰が指示して誰が撃ったのか、そしてその結果に違いがあっても、「問鉄砲の目的(確かめるため)」には大きな変化が無いと言えるのではないかと思われる。

 

「問鉄砲」の目的は何か?について研究者は大きな勘違いをしているように俺には見えるのだ。それは当然この「問鉄砲」という「フィクション」がどのような経緯で形成されたのかを考察するのに重大な影響を及ぼすに決まっているのである。

 

※なお白峰旬氏は論文には書いてないが、 『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』(2014)において、『井伊家慶長記』の

この結果に対して、藤堂高虎は、小早川秀秋の心底は疑いない(家康方である藤堂高虎からの発砲に対して、小早川隊が反撃してこないので、家康方に寝返ることは確実であると高虎が理解した、という意味か?)、と述べたとしている。

と書いている。全くその通りだろう。ところが続けて

鉄砲(空砲)を撃たせた効果が全くなかったという点は注目される。

と書いてあるのだ。ここまで理解しておいて、それでもなお「効果が全くなかった」としてしまうのは、問鉄砲の目的が「小早川秀秋の裏切りを誘発すること」にあるという信念が強固にあるからだろう。

 

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(つづく)

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