「加志の和都賀野」考(その2)

「伊賀国風土記逸文注釈稿」(平松秀樹)という論文に解説が載っているが、これを見ると「加志の和都賀野」という地名が載っている風土記逸文は十中八九鎌倉中期以降のものであろう。

伊賀の國の風土記。伊賀の郡。猿田彦の藭、始め此の國を伊勢の加佐波夜(かざはや)の國(伊勢國)に屬けき。時に二十餘萬歳此の國を知れり。猿田彦の藭の女、吾娥津媛命(あがつひめのみこと)、日藭之御藭(ひのみかみ)の天上より投げ降し給ひし三種(みくさ)の寶器(たから)の内、金の鈴を知りて守り給ひき。其の知り守り給ひし御齋(いつき)の處を加志の和都賀野(わつかの)と謂ひき。今時、手柏野と云ふは、此れ其の言の謬(あやま)れるなり。又、此の藭の知り守れる國なるに依りて、吾娥の郡と謂ひき。其の後、芿見原の天皇(天武天皇)の御宇、吾娥の郡を以ちて、分ちて國の名と為しき。其の國の名の定まらぬこと十餘歳なりき。之を加羅具似(からくに)と謂ふは虚國(むなしくに)の義なり。後、伊賀と改む。吾娥の音(こゑ)の轉(うつ)れるなり。

「風土記逸文」〜東海道より

「伊勢加佐波夜之国」という呼称は『倭姫命世記』等の中世神道文献に見えるという。また「三種の宝器」も同様。ただし「三種の宝器(天之逆太刀・逆鉾・金鈴)」は「宇治の五十鈴の川上」に奉斎されているとあり。「加志の和都賀野」に金鈴が奉斎されているとする「風土記」と異なっている。金鈴以外の「三種の宝器」が何かについて記していないのは、当時(これが書かれた時代)の知識人にとっては「常識」だったからだろうか?


伊賀の地名起源として吾娥津媛命を出すのはいいとして、当時の常識であった「三種の宝器」のうち金鈴がある場所を伊賀に変更する必然性はあまりないように思われる。なぜこんなことをしたのだろうか?そこのところは大いに謎。


実際にそのような異説が伊賀にあったとすれば、そういうこともありえようが、俺の印象では「加志の和都賀野」は架空の地名だと思う。またそれが転じたとされる「手柏野」という地名も今時(奈良時代)にあったかのように書かれているけれど、これも「柏野(伊賀市)」という地名から創られた架空の地名ではないかと思う。そして「吾娥津媛命」というのも、もうひとつの風土記逸文に「伊賀津姫」とあり、『和名抄』に「伊賀郡 阿我」という地名があることから、作者が創作したのではないかと思う。中世にそのような伝承が実際に流布していたのなら、現在にもそれなりに残っててもよさそうなものだが、この「風土記逸文」のみに存在する世界観だから、失われてしまったというよりも、最初からそのようなことが無かったのではないだろうか?


※ これが寺社等の地位や権威の正当性を裏付けるようなものだったら偽書であっても流通しただろうけれど、「吾娥津媛命」を祀る神社とか「金鈴」が祀られている神社なんてものは無いと思われるから、そういう利用方法は出来なかったと思われ。


この風土記逸文今井似閑(1657-1723)という人物が『日本総国風土記』から採集したものだそうだが、おそらくはそれより少し前くらいに創作されたものではなかろうか。