史料の口語訳

少し前に紹介した記事。
真田幸村物の「定本」決定版。歴史の信繁、文学の幸村(前編) 『真田幸村』 (小林計一郎 著)|解説
は『真田幸村』(小林計一郎)の書評だが、ここに注目すべきことが書いてある。

 2の口語訳は、読者にとっては至極有り難いのであるが、書く側からすると相当以上に骨の折れる作業である。自分なりに要約して使う方がよほどラクで、ボロも出にくい。氏は史料の全文を引用することが多く、特に重要な史料の場合は原文も合わせて掲げてある。これでは、もし誤訳があれば一目瞭然なわけで、自信と勇気を要する行為と言える。

ある問題について「○○という史料にかくかくしかじかと書いてある」とあって、確認しようと原文を見てみると、たしかにそう書いてあるようにも見えるけれども、ひっかるところがある。だがその部分をどう解釈すればいいのかが難しい。素人考えで解釈すると大火傷する危険がある。でも解説本はその部分の解釈を全く示していない。


あるあるですよね。


歴史本の著者は、そこまで解説する必要がないと思って書かないのか?それともボロが出ることを恐れて触れないのか?どっちの場合もあると思うけど、後者の場合も結構あるんだろうなと思われ。


昨日の『言経卿記』の

 二日、丁未、天晴、
  前右府(信長)ヘ罷向了、無対面、粽被出了、次各被帰宅了、
  今日衆者、菊亭・[中略]・五辻左馬助等也、

  前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、
  然者家領無別儀之由申之、秈様躰也、且祝着了、
  但面顔ニ腫物出来之間、惣別無見参了、
  進物帯(生衣、三スチ)進之、其外近所女房衆ツマキ・
  小比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯(二筋)ツヽ遣了、
  其外カヽ 遣了、又末物共・彼侍共遣了、薄女房衆同道了、

まあ、これを解説した歴史本は存在しないんじゃないかと思うから、ここで持ち出すのは何だけど、今考察しているところだからこれで言えば、「近所女房衆」というのは解釈に悩む。


桐野作人氏は、この部分について

ただ、「近所女房衆」という書き方が少し引っかかっております。ただの「女房衆」なら、信長付きであることは明らかですが、「近所」をそのまま解釈すれば、二条御新造の近所ということになりますね。
たとえば、言経が家督相続の御礼挨拶をする場合、信長の重臣(とくに在京している)にも挨拶する可能性があります。京都所司代村井貞勝などがそれに該当するでしょう。また、光秀の京都屋敷があるのも確実ですから、そこに留守の女房衆(ツマキか)がいたので進物したという考え方ができるかどうか。

まあ、ふつうなら、信長付きの女房衆だと解したほうがいいかもしれませんが。

膏肓記 拙著本日から発売!
とコメントしてる。こういう説明は非常にありがたい。この解釈が正しいかどうかはともかく、考える手掛かりになる。特に解釈が難しい文章にはこういう細かい検証が必要だろう。桐野氏でも「近所女房衆」という書き方にひっかかるというだけでも俺にとっては貴重な情報。


なお、桐野氏は「二条御新造の近所」という解釈を示しているけれども、俺は「山科言経邸の近所」の可能性もあるように思う。すなわち、この日に二条御新造を訪問したのは、言経妻の「北向」だけでなく、他の公家の女房衆も訪問していて、二条御新造で「女子会」みたいなことになっていたかもしれないと思うから。で、その中にいた言経邸のこ近所さんが「近所女房衆」なのではないか?とか思ったりしてみたり。


その後にある「其外カヽ 遣了、又末物共・彼侍共遣了、」も俺にはとても難解な文で、「カヽ」とは何か?まあ「加賀」という女性なのではないかと思うけど悩むところ。そのあとに空白があるのは、「カヽ」への進物を記入するつもりだったが未記入で終わったということだろうか?


次の「末物共」と「彼侍共」については全くわからない。「末物」って何だ?「粗末な物?」「陶物?」。で、それを「彼の侍ども」に進上したということか?でも「彼の侍共」って誰よ?って謎。で、そこは解釈できなくても構わないようでいて、やはりここの解釈は必要なのかもしれないと思う。


前にも書いたけど、たとえば例の「石谷家文書」の長宗我部元親書状などは、本能寺の変研究者全員が全文の口語訳をして比較検討できれば良いのにと思っている。まあ無理だろうけど。